その場所には、元々、俺が立っていたのに。




イノセント (日溜まりが溶け、消えていく)





「風丸ー!」

 聞き慣れた声に呼ばれ、振り向く。
 朝日に溶け込むような笑顔と共に、彼は現れた。

 不思議だ。ただ生まれつきついてきただけの名字も、この声が口にすれば、たった一つの言霊のように胸の奥に響いて止まない。
 鼓動の高鳴りを微笑で隠しながら、風丸は、落ち着いた声音で応えた。

「どうしたんだ円堂? 何か用か?」

 別に、用事などなくても構わない。
 同じ空間に、場所に、座標に、存在できるだけで何と幸福なことか。至純の幸運に望まれ、他に何も必要がないほど満たされる。
 その流れる髪に触れ、柔らかい頬を撫で、大きな瞳と見つめ合い、華奢な肩を抱き寄せて、隣に居られれば、それでいい。
 けれど、

「豪炎寺見なかったか?」

 呼吸が、ぴたりと停止して。
 張りついていた笑顔さえ、スッとはがれる。
 完全な無表情が君臨し、一瞬にして、闇に澱んだ世界が広がった。

「………………豪炎寺?」

 うん、と聞き返す声に、悪気の一つもあるはずがない。当たり前だ。ただ純粋に、円堂は彼に用事があるのだから。
 ただ、その頬が少し、朱色に染まっているように見えるのは気のせいだろうか。表情が緩く弾んでいるのは気のせいだろうか。身体がうずうずと今にも弾丸のように飛び出しそうなのは気のせいだろうか。見間違いならどんなに良いことかと考えても、それはただの慰めにもなりはしない。


 知っている。最初から、一緒にいたのだから。まるで前世でも長く連れ添ったように、ずっと傍で見守っていたように、自分達を結ぶ絆は運命のように絶対的なものなのだと思っていた。
 けれど豪炎寺……、彼が現れてから、酷く脆く揺れ始めた、関係でもあったのだ。

 帰りは別々に帰ることが多くなった。
 寄り道している二人を見かけることがあった。
 放課後みんなに秘密で特訓しているのを見た。
 練習でも試合でも円堂が最初に名前を出すのは風丸ではなくなった。
 「行くぞ」と呼びかけるのは豪炎寺になった。
 勝利の喜びをハイタッチで交わすのは豪炎寺になった。
 困った時嬉しい時呼びかけるのは豪炎寺だった。
 いつも豪炎寺を眼で追っていた。
 そして豪炎寺も円堂だけを見つめていた。


 どうして、と思う。
 俺はずっとお前を見てきた。
 お前だけを支えようと必死だった。
 陸上部さえ抜けてサッカー部に来た。
 以前よりずっと近い距離を感じていた。

 なのにどうして、と思う。
 風丸を見ない。風丸に笑わない。風丸に怒らない。風丸に喜ばない。風丸に微笑まない。風丸に泣かない。風丸に頼らない。風丸を信じない。風丸を思わない。風丸を想わない。
 この名を呼ぶ回数さえ、僅か数えるほどと感じるのはきっと気のせいでは、なくて。

「……見てないな。近くにはいないんじゃないか?」
「そっかー……ありがとな」

 残念そうに萎れ、俯く表情の真意は計り知れない。
 決まっている。早く豪炎寺に会いたくてたまらないのだと。そういう顔なのだと、分かっていて尚。

 認めたくなんかない。
 自分以外の男に心惹かれる円堂の姿など、視界に映したくはない。

「じゃあ、俺行くな!」
「……ああ」
「また明日な、風丸!」
「…………、」

 かぜまる、と。
 なぞる声は、どうして、今はこんなにも遠い。


 去っていく背中を眼で追いながら、小さく、思う。
 風丸になくて、豪炎寺にあるもの。
 もしもそれを、円堂が追いかけているというのなら。

「――が、欲しい」

 望むものは、たった一つ。
 円堂が焦がれるに値する、それを、風丸が手にすればいい。
 そうすれば、きっと。
 二人がまるで聖域のように笑い合っていた、あの頃のように。


「欲しい」


 見て、欲しいから。笑って欲しいから。怒って欲しいから。喜んで欲しいから。微笑んで欲しいから。泣いて欲しいから。頼って欲しいから。信じて欲しいから。思って欲しいから。
 想って、欲しいから。
 だから、

「力が、欲しい」

 さよならだ、円堂。


『また明日な、風丸!』


 離れていく。
 最後の笑顔を、心に刻んで。

「……ああ」

 風丸は、背を向けた。
 去っていく円堂に、背を向けた。



「また明日な、円堂」







 
ブログに掲載したものに加筆修正したもの。
DE化直前妄想話。報われない風丸さんが好きです。

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