おんなのこじゃないけれど。
バレンタイン・クオリア (俺は俺だから、できることもあって)
この日の朝は毎日緊張する。
ようになったのはいつからだろう、決して最初からではなかったと思う。
それは意識の程度の差であり、つまりは思いの形の変化であり、たぶんその出来事に対して抱く思考というのが一段階成長したからこその緊張であるのだろう。
バレンタイン。
ただのイベントと、割り切ってしまえばそれまでなのだけれど。
「おはよう」
声は、やはり。
一年前も二年前も、変わらず。
そこに宿る感情だけは、もしかしたら違う色をしている。
風丸は。
円堂の幼なじみは。
二月十四日の月曜日、こうして円堂家の玄関前に寄りかかっていて、それでこうして見上げて、笑う。
きれいな紅が嬉しそうに、少しだけ照れ臭そうに滲む光景を、気恥ずかしくて、直視できないでいながらも、円堂もおはよう、と早口で返す。
勝手に歩き出すと、風丸も当たり前のようについてくる。
一年に一度だけだ、こうして風丸が円堂の家まで迎えに来るなんて。
本当に珍しいことで、その珍しさが意味することは、実に単純明快だからこそ、円堂にとっては認めづらい事実でもある。
登校用のカバンと。
もう一つその手に、紙袋を握っていることは。
「円堂」
「ん?」
「“今年は”やけに早足なんだな」
「……うるさい」
ああもう。やめてほしい。
わざと、絶対わざとに決まっているけれど、こうして駆り立てないでほしい。
今にも熱く湧き出してしまいそうな、この衝動を。
抑えるのに必死で、喋ることさえ億劫だというのに。
「円堂」
「なに?」
「俺、やめることにしたんだ」
いつもとは切り出しが、異なる。
その違和は、喋りながら実感する。
嫌な予感が、することも。じわじわと。じわじわと。
「……なにを?」
「お前と一緒に学校行くの」
ぴたり。
と、止まる。
言葉の真意など、考えなくても理解る。
円堂は思わず立ち止まり、息を詰めて、自分がこの世界の一部だということさえ忘れそうになった。
それくらいに。
驚いたのか、それとも。
「……そう、なの」
「うん」
「本当に?」
「うん」
「…………どうして?」
それはまた。
酷い質問だなあと、笑う声に、円堂を責める気配など何もなかった。
ただ、少しだけ寂しそうで。
だというのに躊躇いがちの円堂とは真逆に、サラリと言い切ってしまう。
「いい加減やめようって、思っただけだよ。お前を毎年追いかけるのは」
突発的に始めた日記帳を。
三日坊主で放り捨てるような、そんな、適当な口調で。
想いを断ち切る、と、風丸は宣言した。
その衝撃は、やはり、隠しようがない。
「……っ、」
何か言わないと。
本当にこのまま、風丸は行ってしまう。
――そう思った。
――思った。
――想って、けど。
たとい一口だろうとこの唇が漏らすおとは許されてはいなくて。
色素の薄い髪の毛が。
風に遊ばれ、ふわり、舞う。
黒い学生服は。
別れを告げる儀式のように、沈み誘った。
むかしからこんなにも、綺麗で。
こんなにも遠かったのだろうか、風丸は。
こころに、描く。
『? なあに、これ』
『バレンタインだよっ。見てわかんないのか?』
『でも……いちっぺおとこのこだろ? 俺だっておとこだよ』
『知ってるよ。でも、あげたいからいいんだ』
『えっと』
あの時も。
そうだ、こうやって、円堂は狼狽えて。
『なんだよ、いらないのか?』
『そうじゃなくて……』
風丸はわざとぶっきらぼうに頬を膨らませて。
でも円堂の一挙一動に、泣く前兆のようにびくびくしていた。
『おれ、お返しなんかつくれないよ。かーちゃんにもぶきようだって』
『いいよ。いらない』
『いちっぺ』
『その代わりひとつ、約束して』
思い出す。
今と同じ、あの、寂しそうな微笑と。
切なそうに、見守る、瞳のくれない。
「――かぜ、まる」
なに、と。
呟く、風に、掻き消されそうなくらい弱い。
それは互いに、一緒で。
だからこそいつまでも俺とお前はいつまでも
「ずっと一緒にいてほしいんだけど、だめ?」
「、だ」
反芻、しかけて。
風丸は唇を噤んで、噛みしめて、気づいたようだった。
「……それは」
どういう意味を、さしているのか。
知りたいのだろう、もどかしそうに眉を顰める風丸は、やはりあの日と同じ、泣き出しそうなこどものようだった。
それでも、自分も同じような顔をしているのだろうから、指摘する余裕はどこにもなくて。
「俺が風丸を好きだからだよ」
吐息のように柔らかなおとは、果たして届いたのかどうか。
「…………」
困惑を乗せた表情を見る限り、聞こえてはいなかったのか。
悔しい。
歯痒い。
……そうか。
これを、この、どうしようもないキモチを。
「好きだって言ってるッ!」
俺は。
ずっとお前に抱かせていた、だなんて。
「でもそれが理解らなくて、自分のキモチなんて全然掴めなくて、」
とても 残酷で
「なのに毎年バレンタインは来るんだ、お前は必ず来ちゃうんだ、」
とても 矛盾していて
「その度に苦しくて、いたくて、辛くて、俺はだってお前のことが」
とてつもなく 、 いとおしい
唇に柔らかな感触が触れていた。
「!……かぜま」
驚き飛びはねかけた肩を、強い力で引き寄せられる。
すぐ目の前に風丸の端正な美貌があって、閉じた瞼が怖がるように震えていて、それが瞳に瞬間的に焼け残る。
おとことおんなでなくても。
キスはできるのだ、と、今更ながらに驚いた。
そのまま何秒を過ごしたのか。
もしかしたら数分経っていたのかもしれないし、或いは本当に一瞬の出来事だったのかもしれない。
けれどようやく唇から温もりが消えていたその頃には、円堂はまともに立ち上がれないくらい息を荒くして風丸の身体へと倒れ込んでいた。
「……っ、は……っ」
「大丈夫か? 円堂」
キスの間ずっと呼吸を忘れていたせいか、全身の筋肉は強張って言うことを聞かない。
がたがた、がたがたと絶えず震える身体を悟られぬよう必死に押し殺しているというのに、そんなものは勿論風丸にはお見通しで、小さな子どもにするように後頭部に当てられた手が何度も撫でる。
優しい感触に泣きそうになって、けれど複雑だから、涙目で睨み付ける。
返すは嫌味と、相場は決まっていた。
「んで風丸は、そんな……へいきそう、なの」
「へ? 別に平気ではないけど……初めてだし」
「おれだって!」
え、と風丸の動きが硬直する。
失言に気づいて慌てて唇を覆った円堂は、ニヤリ、と笑った風丸の表情に思わず眼を見開く。
「へー、円堂……初めてなのか」
「うっ、るさい! お前だってそうだろ!」
「そりゃ俺は、初めては円堂って決めてたから」
「!?」
次々と明かされていく真実に対応しきれず脳がパンクしかける。
幼なじみの勘か、そのタイミングを正確に把握したらしい風丸は、あ、と付け加える。
やっぱり口調は軽くて、けれど想いの底は、紅の瞳を覗いても、ちっとも見渡せない。
「結局俺は、円堂のこと諦めなくていいの?」
「……改めて訊くなよ、そんなこと」
「信じられないのも当たり前だろ。俺が一体、何年お前のこと好きだったと思う?」
知っている。
それだけは、もう、気づいてしまった。
初めてバレンタインのチョコをくれた、あの時から。
風丸はずっと、円堂のことを想い続けてきたのだ。
「……憶えてるよ、ちゃんと」
「そっか」
「もう一個、大切なことだって、ちゃんと」
「――!」
知っていた。
それだけは、認めようとはしなかったけれど。
初めてバレンタインのチョコをもらった、あの時から。
円堂はずっと、待たせてしまっていたから。
「ハッピーバレンタイン、風丸」
不意打ちで差し出したそれは。
正真正銘初めての、円堂から風丸への、お返しだった。