隠し事が嫌いだった。
君がいた
(笑っていた声さえも、遠くで幽かに響くだけ)
緊張なんて言葉では済まないような警報が、頭の中で鳴り響いていた。
近づかない方がいい、きっと後悔するだろう、自衛のための自重を推奨する警報音は、一歩ずつ歩みを進めるたびに強まり、視界を埋め尽くすほどに音となり形となり色となり縦横無尽に走り回っていた。
キリキリと胃を締め付ける感触に唇を噛みしめながら、すぅ、と息を吐く。気が楽になるなんてことは勿論なく、こんなものはまやかしの儀式に過ぎない。けれど、そんなつまらないものにさえ頼らねばならないほどに、精神の支柱は脆く傾ぎ、故に仮初めだろうと何だろうと縋り付くことに躊躇いはなかった。でなければきっと、壊れてしまう。
先日、教師陣の目をかいくぐり忍び込んだ塾では、しえみや出雲と、少しは会話することができた。
しかしそれは、決して以前の関係に戻れたわけでも何でも無く、出雲は案外すんなりと話してくれたものだが、苦しげに怒鳴ったしえみとは容赦なく溝を感じざるを得なかった。正体が露呈した時、表情を歪ませながら泣き叫んだしえみの姿と重なり、燐の思考は更に深い闇に取り憑かれる。
「……よし、」
いつまでもくよくよと立ち止まっていたって、何の意味も無い。
行こう、とドアノブに手を伸ばしかけた時、背後から間の抜けた「あ」と短いつぶやきが聞こえ、慌てて燐は飛び退いた。
微かに触れたドアノブの感触は、冷たい金属のものだった。
「し、志摩」
「…………」
本当は一番会うべきで、
一番会いたくなかった、その人。
避けては通れないその人物の突然の登場に、燐は瞳を軽く見開いて、行き場のない手を空中に泳がせながら、どうしよう、なんて言えばいいのかと必死に思考を巡らしていた。
それは相手も同じなのか、それとも燐より少しは冷静だったのだろうか、志摩はまるで表情を隠すようにして頬を掻きながら、覇気の無い小さな声で問うのだった。
「……奥村くん、別カリキュラム受けとるんやろ。別室で授業なんとちゃう?」
「えっ。あ……それは、」
そんなことは、理解っている。雪男にも散々説教されているくらいだ。
しかしそれでも、みんなと話がしたかった、その一心でここまで来たのだと、口にしようとして――燐の唇は、不自然に動きを止める他なかった。
志摩が俯いていた。
燐の瞳をいつも覗き込んで、勝手に感情を読み取って、嬉しげにはにかんで、情けなく泣きわめいて、時折ひどく優しく微笑んでいた志摩が。
まるで燐から、その視界から存在を消し去りたいとでも言わんばかりに深く俯いて、息を押し殺すようにして、目の前に直立していた。
その姿を、見た途端に。
燐は一言の謝罪と共に、軽く身を翻して、祓魔塾へと続くはずの扉に、背を向けていた。
飛び出した尻尾は、いつものように揺れることもなく、しょげたように落ち込んでいた。
「はー、今日もつっかれたなァ」
ベッドに身を投げ出すと、ようやくの休息の時間だと気が付いた全身の筋肉は一斉に悲鳴を上げるものだから、痛みを和らげようと四肢を遠くに伸ばして燐は溜息をつく。
シュラをはじめとする教師陣によって別カリキュラムを受けている燐だが、その内容は大変な労力を伴うものだ。半年後の祓魔師認定試験に合格することを生存条件とされている故に、通常の塾で行っているものとは危険度の幅が異なる。いくら別格の体力を有する身体と言えど、くたびれてしまうのは無理もない。
しかし、溜息の理由はそれだけではなかった。
「……志摩、元気そうだったなあ」
塾で会ったときは、普段の姿からは想像もつかないほどに暗く沈んでいた瞳も、帰りに燐が見かけたときは、細めて笑う、いつもの調子に戻っていた。
志摩が見知らぬ女の子を口説く場面など見飽きるほどに目撃したものだが、今ではその行為が全く別の意味を伴って燐に襲いかかってくる。何故ならば。
燐は志摩と、付き合っていたからだ。
いつからそのような関係になったのかは実はあまり憶えていない。気がついたらお互い惹かれていた、としか言い表せないかもしれない。けれど恋など経験したことがない燐にとっては無論本気のつもりで、志摩もきっと、そうなのだと思っていた。重ねる言葉は少なくとも、隣に並んで座っていれば、志摩の吐息を感じていれば、大抵のことは空気を通して燐の耳へと入ってきた。そんな柔らかい、温かさに包まれていた。
……あの日までは、だけれど。
「ただいま、兄さん」
「おう、雪男、おかえりー」
ドアが開くと、双子の弟が帰還。ベッドから軽く身を起こして迎えると、雪男は小さく笑んだようだった。燐の正体が周囲に露見してから、こういったほんの些細な気遣いを感じることがあって、嬉しいような申し訳ないような、複雑な気分を味わう。
「……なあ、雪男」
「ん?」
そしてその気遣いを尊重しない自分の態度が、決して褒められたものでないと理解しながらも。口を、開く。
「みんなの様子はどうだった?」
毎日のように繰り返すその質問を、予想していたのだろう、雪男のものである溜息が聞こえた。濃い疲労が滲んだ吐息は、部屋の空気を更に重いものにする。ベッドに顔を埋めた燐をちらりと一瞥し、雪男はコートを脱ぎながら静かに答える。
「……別に。いつもと変わらなかったよ」
「そんなこと、ないだろ」
何度この遣り取りを応酬したことか。諦めが悪いのか、それとも単なる確認行為なのか。自分がいなくなった後の塾の行方を、ずっと燐は気にかけている。
まるでそれは、仕様が無い理由で家出した子どもが母の動向を探るような、不安定で弱々しい動機付けのようにも雪男には思えた。
そしてそれが、妙に腹立たしくてたまらない。
「兄さんがいないからって、何も変わらないよ」
ゆらゆらと浮いていた尻尾が、その言葉を聞いて硬直した。期待を、不安を、一瞬で凍らせた。それなのにちっとも満たされない。兄の一挙一動が、苛つきを加速させる。馬鹿みたいに揺れ動く。
この感情をなんと呼ぶのか、もうずっと前に、知ってしまったけれど。
「つまらないこと気にしてる暇があるなら、試験合格のために努力したら? 今度こそ殺されるかもしれないんだし」
酷い言葉を吐いているのは、理解っている。本当は優しい言葉をかけたい自身の本音だって、強く感じている。
塾の生徒達が、誰も彼もというわけではないけれど、燐の存在を気にかけ、思考から外さずにいられないことだって、いとも簡単に、読み取っている。
ただ、それを率直に伝えるなんて真似は、雪男にはできない。
燐の反応が理解っているからこそ、どうしても、素直になるわけにはいかない。
「……雪男」
「何?」
「俺、やっぱり、早まったかな」
「何を今更」
燐が何のことを言っているのか、雪男には容易に想像がついた。アマイモンの襲来時、傷ついた仲間達を放っておけず、目の前で剣を抜いてしまった。だからこそ今も、こうして苦しんでいる。
そうだろ、と問おうとした雪男の予想は、あっさりと覆された。
「あのときメフィストに、殺されるべきだったのかな」
絶句した雪男には気づかずに、燐は俯せに寝転んだまま、尻尾だけを僅かに揺らしている。
その何気ない動作が、あたかも、言葉に込められた意味を霧散させているようで――激しい動揺を、感じてしまう。
「それともお前に“死んでくれ”って言われたときかな。ネイガウスに襲われたときかな。アマイモンに」
「兄さん」
「ごめん冗談」
簡単に翻した燐は、笑ってすませる心づもりのようで、雪男の目線から逃げて謝罪する。
その態度を見た瞬間に、堪えきれずに雪男は、徹底的な一言をぶつけていた。
「志摩くんのことが気になるんだろ?」
名前が飛び出した途端、ベッドから転げ落ちんばかりに起き上がった燐は、早く続きを聞かせろと言わんばかりに瞬きもせず雪男を見つめている。見たこともないような真剣な表情で、だ。
また、胸のどこかがちくりと針に刺されたような痛みを味わいながら、続ける。
お願いだから、とこころは絶えず祈っていた。
この名に祈りを託すような、そんな真似は、やめてほしいのだと。
「もう彼は、兄さんのことを忘れようとしてる」
「…………!」
「だからもう兄さんも、彼のことなんか忘れればいいんだ」
「…………」
燐と志摩が、付き合っている。
そう知ったのは、一ヶ月ほど前のことだった。
忘れ物をした雪男が教室に戻ると、勉強会をしていたらしい二人が教科書まるなげの状態で抱き合って、互いの唇を交わし合っていた。恋愛事には慣れた様子の志摩にリードされ、対照的にてんで疎い燐は息もうまくつげず、唾液を滴らせながら志摩に必死にしがみついていた。
あの恍惚とした、表情。色香を漂わせた兄の顔は。
毎日妄想で汚していたそれよりも、ずっと恐ろしく、美しかった。
「兄さんが苦しむ必要は無い。離れればお互い楽になれる。そうだろ」
これが、果たして兄を思う弟としての気持ちなのか、それとも別の何なのかは、雪男にさえ判断できない。
それでも、間違ったことは口にしていない。そのつもりだった。魔神の仔とただの人間が、結ばれることなど有り得ない。現に志摩のこころが、燐から離れているのは事実だ。そう形にして唇から紡ぐのは、何か心地よい感覚だった。雪男から遠ざかった場所で志摩の腕に抱かれていた燐が、今すぐにでもこの手の元に舞い戻ってくれるような、強烈な期待さえ込み上げていた。
「……った」
「え?」
けれど。
「よかっ、た……」
燐の呟きは、理想とは大きく、かけ離れたもので。
どころか、雪男の助言さえをも、全く聞き届けていない様子で、微笑んでみせたりするものだから。
気がついたら、伸ばした手は柔らかな黒髪を押さえ付け。
両足の間には細い腰があって、先には驚愕に塗られた、雪男とあまり似ていない燐の双眸。
「忘れられて良いって、言うの?」
「……」
「本当は未練タラタラなんじゃないの?」
「……それは、」
「どうして志摩くんと付き合ったりなんかしたんだよ」
自分でも、支離滅裂なことを口にしているとは、重々承知している。
ただ、雪男は悔しかった。燐を守る権利を与えられ、燐に守られ、その挙げ句に突き放し、戸惑いのままに距離を置いた志摩が、許せなかった。
悪魔の仔だからという理由は、大きい。克服できるのは寧ろ近い立場に在る雪男だけなのだろう。
でも、あの日の記憶は薄れないのだ。
燐を抱きしめ、燐と口づけをした、あの近さだけは、どうしたって、届かないものなのに。
届きながらも裏切ったそれに、納得なんて、できはしない。
「僕とずっと一緒にいれば」
「ゆき、お?」
「そんな思いしなくたって、良かったのに」
吐き捨てて、近づける。
燐は最初、困惑と共に顔を逸らした。顎を掴んで引き寄せると、逃げ切れずに、瞳がかち合う。
潤んだまなざしが、雪男を求めていないことなど知っている。
奥に、隅に、端に、底に、確かに愛した男の姿を浮かべて、求めている、ことを。
「兄さんのことが好きだよ」
見開かれた目の、躊躇と驚愕の隙間を縫って。
唇を押し当てた。
真っ先に飛んできた拳を軽く受け流し、シーツに押さえ付ける。ん、と小さく燐が鳴いた。何かを怖れるみたいに、震えている。一瞬だけ唇を離し「やめ」こじ開ける必要も無く簡単に口内に侵入する。
雪男の意図に後から後から気づかされる燐は完全にペースをかき乱され、惑っていた。元々優しい性根の兄だ。縋る弟を振り払うことすらできないのだろう。舌を絡め取られても、大して抵抗もできずに、されるがままになっている。
あの日の、光景。志摩と燐の、恋人の睦み合い。無理矢理にベッドに組み敷き、兄を蹂躙するこの姿は、同じように映るのだろうか。答えは理解っていながらも、認めたくはないものだった。
唾液を送り込みながら、思う。尻尾を見せてはいけないから、たぶん燐は志摩にも裸を見せていない。すんでの所で追い返したに違いない。
だとすれば、そう。
これは紛れもない。絶好の機会であって、最後の奇跡と、呼べるのかもしれない。
「ねえ、兄さん」
荒い息をつき、全身を震わせる燐を愛おしく眺めながら、笑う。
シャツのボタンに手をかけても、どうやら意識がぼんやりと飛んでいるのか、反応はない。首にまで流れている唾液を舐め上げ、耳元で囁く。
「僕が全部忘れさせてあげるからさ」
悪魔の誘惑を、そっと。
「抱かせてよ」
初青エクSSです。ようやく書けたよろこびでいっぱい。
3部作完結予定なので、どうぞおつきあいよろしくお願いします