冷たい世界が嫌いだった。




君がいた (懐かしい色をして、陽炎のように揺らめくけれど)





 かりかりかり、と鉛筆の芯が音を立てていた。

 気づかれないよう静かに視線を投げると、見たこともないほど真剣な表情をして、燐がノートに黒い線を無尽に走らせている。
 授業でもそれくらいの集中力を発揮すればいいのにと、小さく噴き出してしまう。流石に気づかれ、憮然とした面持ちをして見上げてくる。苦手な勉強をしているせいか、普段より若干不機嫌そうだ。

「……何笑ってんだよ」
「いや、笑ってへんよ?」

 納得がいかないのだろう、しばらく頬を膨らませていたが、また気を取り直して作業に戻る。本人も授業の遅れを放課後で取り戻すと意気込んでいたので、投げ出すわけにはいかないのだ。

 勝呂と子猫丸が所用で外すと連絡があった時、流れで中止になる可能性もある他愛ない勉強会だった。志摩は二人と異なり勉強が得意とは言えないし、他人に教えられるほど褒められた頭脳の持ち主ではないのである。
 それでも全く構わないから実行したいとの表明を燐が伝えに来て、志摩は、どうしようもなく嬉しかった。二人きりだとかそんな単純なことではなく、少しでも頼りにされている気がしたのだ。いつも一人で責任を負い、弱さを見せない謎めいた燐のことだったから、優越に近い満足感をしかと味わっていた。有頂天にも近い心境だったかもしれない。

 ……が、しかし、意外と簡単に破局は訪れた。鉛筆の芯がぽっきり折れたのである。尖っていた先端をノートに鋭く立てすぎたのだろう、粉が飛び散って悲惨なことになっていた。
 だからシャープペンシルを使えばいいと言ったのに、と、机越しに向き合う燐に笑いかける。

 そのときに。
 なんだか燐は、ひとりで置いていかれた、こどものような顔をして。
 頼るひとがいなくなった突然の孤独感に、びっくりしたように、硬直していた。
 そして志摩の唇は、
 気がついたら、想定していたものと、全く異なる言葉を唱えていた。

「奥村くん、キスせえへん?」

 固まっていた燐の時間が俄に動き出して、激しい朱色が宿る。少しだけそれに、ほっとした。

「な、にいってんだよ、勉強中だっての、」
「ええやんちょっとくらい。休憩ってことで」
「は……」

 うまく言葉を続けられず、頬を染めたまま俯いてしまう。困らせている自覚はあるが、それ以上に可愛くて余計に揺らしたい。言葉ひとつだけで、こんなにも動揺して緊張してしまう、幼い恋人が愛おしくてたまらなかった。

「ええやろ?」
「……っ」

 自分がどんな顔で誘っているのか、その反応で理解しつつも。夢中にさせたい一心で、華奢な肩を引き寄せた。

「……雪男とか来たら、どうすんだよ」
「そのときはそのときや」

 頬を撫でると、長い睫毛が震えた。上気する柔肌を指先で愛でる。自分と同じ男のものとは、やはり到底、信じられない。
 嫌がるように首を振られ、それでも顎を持ち上げると、求める形に動く唇の意思がそこには秘められていた。

 力強くて、頼りになるのに、本当はずっと、脆くて小さい。
 なんて不思議な子なのかと、想いながら、口をつけた。

「ん……」

 吐息が漏れる。唇と唇だけを、互いを支え合う柱のようにくっつけて、確かめ合う。
 燐は確かにそこにいて、志摩は確かに燐を感じていた。それでもより深い場所まで飛んでいきたくて、椅子を蹴って立ち上がると、半ば襲いかかるように接近する。こころごとからだごと、と何処かで声は響き続けていた。

「う、っ」

 唇を軽く舐めると、驚きの呼気のお陰で空いた隙間に入り込む。熱い舌を絡め取り、唾液を移して、翻弄する。

「奥村くん……」
「……!」

 呑め込めなかった唾液が、燐の唇の端から滴った。それにも気づいていないのだろう、必死に志摩のキスに応えようとする燐は無我夢中に志摩と交わしていた。泡だった透明な液体が流麗な輪郭の細い線を伝っていく光景は、酷い背徳感と共に情欲を掻き立てて、思わず志摩は、燐のシャツの裾に手をかけていた。

 我慢できずに肌に触れたとき、「っ!」夢から醒めたような表情をして燐は飛び上がった。

 強く通じていたはずの唇は簡単に離れ、机はまるで溝のように二人の間に立ち塞がり、大きな距離が絶対的にのし掛かってくる。
 慌てて志摩が謝罪を口にすると、燐は僅かに首を振る。その顔は青く、凍り付いていた。寒さに震えながら、孤独を強制されているようでもあった。

「堪忍な奥村くん、ついこの手が出てもうて……」
「……いや、はは、気にすんなよ」

 そろそろ帰ろうぜ、と支度を始める燐は、志摩の視線から逃れようと俯き続けていた。
 本音は呆然としていたかったが、そんな様子を見ていると、もどかしい胸中を押し殺して、倒れた椅子を直す他ない。

 拒絶では、なかった。
 否定では、なかった。
 しかし燐は、その先を許さなかった。
 その答えを志摩が知るのは、しばらく経ってからのことになる。




「……兄さん?」

 最初に聞こえたのは雨音だった。
 近い天井を見上げながら、朧気に意識を流す。首を動かすと、求める人はすぐ隣に横たわっていた。意識はないらしい、丸まった背中から軽い寝息の音がした。

 身体を起こすと、少しだけ肌寒い。服を着ていないからだろう。
 蹴り飛ばしてあるシーツをそっと掛けてやると、身じろぎしたようだった。声を立てずに笑って、ベッドを抜け出す。

 上に何か羽織ろうと視線を巡らしていると、背後の気配が微かに疼いた。「ゆきお、」呼ばれた。間髪入れず振り向くと、朧気にこちらを見る燐の両眼と交差して、その覇気のなさに驚く。「なに、どうしたの?」努めて優しい声でゆっくり近づき、跪いて目線を合わせる。他人の機嫌を窺うような態度は好ましいものではないけれど、ただ一人を前にすればそんな言い訳は呆気なく霧散する。怖がらせたくない。本音はそれだけだった。

「雪男、おれさ」
「うん」
「おれは」

 そこで一旦唇の動きを止めて、迷うように眉を顰めた。自分でも何を口にしたいのか理解しかねる様子だった。その表情は昔の兄に似ていた。人との関わりを避け、極端に一人の時間を選び、何もかもを遠ざけていた頃と同じ瞳をしている。正体の露見の所為かと推察しかけて、そうではない自分の所為だと、改めて思う。証拠に、志摩との関係が崩れてからも、こんな眼は一度もしていなかった。

「ごめん、僕、用事があるからそろそろ出るよ」

 夢現の表情で相槌とも呼気ともつかぬ返事をして、再び燐は重そうな瞼を閉じる。
 再び立ち上がりコートを羽織って、出て行く瞬間に、横顔で振り返った。数秒も見つめることはできなかった。
 自己満足を錯覚するための行為は、一体何の線を結んだというのか。

 捻子が飛んだ時計のように。
 時間をやり直せたら、良かったのに。




 雨が降っていた。
 気にせず走っていた。

 雪男が部屋を去って、堪えきれずに飛び出した直後から、降り出した。
 強い恐怖がこころを捕らえていた。視界が流転して、色は失われて、匂いは消えて、この世の何もかもが消失する。それを必死に追いかけ続けていた。少しでも速度を緩めれば二度と間に合わないのだと、頭痛を施す警鐘が訴えている。

 唇を噛みしめていないと、涙があふれそうだった。弱さを叱咤しようと頭を殴ると、強い衝撃に意識がぐらつく。そうした問答を繰り返す内、いつの間にか足は立ち止まっていた。一度止まってしまえば動き出せないと知っていたから走り続けていたのに、努力は何の功も成さず宙に霧散する。

「……っ」

 冷たい雨に打たれていても、昨夜の温度が、感覚が、少しも消えなくて、流れなくて、

 雪男の声が、耳朶を掠める。服を奪う。肌を舐める。局部に触れる。髪を撫でる。愛を謳う。
 何度だって、何度だって、言い聞かせるように刷り込んで、大切な記憶に被さるように、後から修正するように、覆っていく。まるで深淵の縁に立たされている錯覚が襲う。
 声は、恐ろしくなどなかった。優しいだけだった。それが怖かった。知らない人に抱かれるより、それは寧ろ、恐怖を縫い付けて。

 無意識の内に、雪男の腕の中、彼の名前を呼んだ。
 傷ついたその顔が忘れられなくて、激しい後悔に焼かれながら、雨に打たれ撃ち抜かれる。

「――」

 名を、呼びたい。
 初めて知った愛おしさに、この冷たい身体を慰めて欲しい。ただあの大きな腕に包まれた時、安堵だけが胸を満たしてくれるから。

「――し、」

 それでも躊躇う。戸惑う。何もかもをかなぐり捨てて、事情など踏みつぶして、理屈などぶち壊して、走っていけばきっと。きっと時間なんて幾らでも、巻き戻してやり直せるはずなのに。

 俺は、


「あれー? こんなとこで何してはるん?」


 幻聴を聞いているのだと、思った。
 まさかこのタイミングで、彼が、最も会いたくて会いたくなかった人が来訪するなどと、想像できるわけがない。都合の良い虚実だと、振り向かない。甘えたくて、縋りたくて、召喚した悪魔の囁きには屈しない。
 今更抱きしめてほしいなどと、馬鹿な虚言を、口にできるわけがない。

 でも、唇は勝手に動いていた。

「……し、」

 もうなんだって、

「……しま」

 いいから、

「志摩……!」



 そこに志摩は、立っていた。



 ダークブルーの傘をさしているから、横顔だけが見える。隣には、知らない女子生徒の姿があった。親しげに、何事か会話しているようだった。

「あ……」

 伸ばしかけていた手が、怯えて硬直する。愚かさが身を千切るほどに沈んできて、激痛だけで死んでしまいそうだった。苦しくて悔しくて、今すぐにでも吐息を断ち切りたくなる。地面についている足が痙攣するように震えた。気を抜けばその場に倒れてしまいそうだった。

 そういえば、あの日以来。
 正体が露見してしまってからの、初めての雨なのか、と彼の横顔を見ながらぼんやりと思考する。

 昨日の出来事のようで、遠い昔のようでもある。思い出は輝いていて、懐かしくもある。戦いの記憶はほとんど残っておらず、ただ戦った理由だけは燻っていた。
 仲間を守るために踏み出した一歩は、とても重くて。決して正しかったとは思えない。雪男の言う通りに、隠して無難にやり過ごすべきだったのかもしれない。それでもそんな迷いは、彼らの顔を見れば散ってしまった。生きていてくれて良かったと、歓喜に震えた。傷つけるばかりだった力を守るために使えたのだと、達成感さえあった。

 そんな燐に対して、候補生たちの反応は劇的なものだった。数時間前の笑顔が、交わした遣り取りが嘘のようだった。
 涙を流し、怒りに叫び、躊躇いを落とし、そして志摩は。
 理解できないものを見るかのように、呆然としていた。




 ――――今も。

「え?」
 気づいたときには、既に遅い。
 雨粒を払う傘をさして、志摩は燐のことを見つめていた。女生徒の姿は既に近くにない。ほっとする余裕など、ないけれど。

 唇が僅かに開く。名前を呟きかけて止まったのだと、読み取る。昨日、塾に向かう途中で会ったときは、あんなにも虚ろな目をしていたのに。

 志摩は生きていた。
 志摩の両眼の中で燐も、生きているのが見えた。

 背を向けて走り出した。制止の声は、足の動きを止めさせるには至らない。
 雪男が言っていたように、志摩が自分のことを忘れて楽になるならば、それが唯一の救いに思えた。
 恋人の正体を、重ねた時間を、忘却するのが志摩の答えならば、異議を唱えるなど許されないのだと割り切ったつもりだった。

 だけど事実は、変わらないのだ。燐が魔神の仔であるのが、真実であるように。
 志摩は恋人だった。燐にとって、大切な、

「――奥村くんッ!!」

 ぐい、と強い力で右腕が引っ張られる。
 抱き寄せることも、引き寄せることもないのに、離すことだけはないように、ありったけの力がそこに込められていた。

「志摩……」

 向くと、真剣な顔をしていた。張り詰めた瞳が細く研ぎ澄まされて、刃物のように尖っていた。本人曰く男前の髪型が、雨風にやられて壮絶に乱れているのに、気にする素振り一つない。
 荒い呼気が、肩を上下させている。しばらく志摩は、何も言葉を発そうとはしなかった。だから燐も黙って視線を外し、灰色の空を見上げることに時間を費やした。

 降りてくる雨音は、格段に小さくなっていた。
 志摩が口を開く頃には、水たまりを弾く水音さえなくなっていた。

「追いかけといて何やけど、スマン、理由はないんや」
「……?」
「逃げる君の背中見たら、勝手に足が動いとった」

 愛の告白ともとれるのに、互いに表情は暗く、落ち込んでいる。志摩は燐の横顔を眺めて、いつかの記憶の通過を味わっていた。
 放られて、何も出来ず、固まっていたこども。まるでひとりで、今にも泣き出してしまいそうな。

「……俺はあの日から、歩き出せずにいる」

 変わらぬ日常が、流れていくものだと思っていた。
 祓魔塾に入って、燐と出会って、なんだか世界は以前と少し違って見えた。何気ない日々を過ごしながら、同じ時を重ねて、笑い合っていればそれだけでいい。
 満たされていた。幸福だった。
 モラトリアムの歯車を浮かべて、笑顔を見せながらも。

 本当はふとした折の寂しげな表情に、気づいていた癖に。

「もしも奥村くんが、悪魔じゃなかったら」



「俺は俺だ」



 希望のままに口にしようとした未来を、鋭く声が遮った。志摩の言葉は、唇の先で停止していた。
 雨雲が気流に乗って流れ出している。
 僅かにさした光に全身の雨粒を煌めかせ、燐は志摩の手を振り払っていた。

「俺は俺で、それ以外の何者でもない。魔神の息子じゃない俺なんて、都合の良い存在はどこにもいない」
「奥村くん?」
「許せなくても、認められなくても、それでもこのまま進むしかない」
「…………」
「だけど俺って、馬鹿だからさ」

 自重気味に笑い、燐は溜息をついた。語尾が震えたから泣くのかと思ったのに、顔を上げたときも、やはり貼り付いているのは笑顔だった。
 ああ、今も尚無理をさせているのだなと、いつも通りに咀嚼する。

「あのとき殺されてればって、考えることもある」

 それは。
 初めて聞く、偽らざる本音だった。

「メフィストに、ネイガウスに、アマイモンに、アーサーに、雪男に、殺されていれば」

 同い年の少年が語るとは思えない、それは過酷で残忍で非情な、ただの現実に過ぎなかった。
 語る燐の瞳は、いつもの輝きを失って、まるでこのまま闇に吸い込まれてしまいそうなほど暗く濁っている。雨粒が入り込んだせいだろうか、と馬鹿なことを考えて、頭の片隅で一蹴する。

 ああ、いつもいつも。この子はそう、苦しんで、嘆いて、傷ついて、それでも立ち上がる。

 知っていた。理解っていた。感じていた。悟覚っていた。
 認めたくはない、諸刃の剣。
 哀しくて痛ましくて手を伸ばしかける。
 その手を、

 また、燐が避けた。

 あの日塾のドアに必死に伸ばした手を、志摩が邪魔したように。
 同じ躊躇いを浮かべて、今度は燐が、遠ざかっていた。

「ごめ、」

 謝罪の途中で、燐が小さく笑った。泣き出したいのを堪えているように瞳を細めた。

「なんか昨日のこと、繰り返してるみたいだな」

 思っていたことを相手からも指摘されてしまい、やけに羞恥を煽られて顔を俯ける。

「……あ−、そやね」

 言われてみれば確かに、と頷きかけて、それが逃げ口上なのだと暫く気づかなかった。

 顔を上げたとき、追いかけたその背中はどこにもなかった。




「どこ行ってたの?」

 寮に辿り着いた途端に降り注がれた、出迎えの声に固まる。
 地面に深く落としていた目線を上げると、扉にもたれて腕組みをしている雪男の姿が否応なしに眼に入った。

「別に。大した用事じゃない」

 緩く頭を振ると、ふと意識が揺れて、視界が真っ白に染まった。

 失神しかけているのだと気づいた時には、体は強く引き寄せられ、待ち構えていた衝撃は訪れない。地面に倒れるかわりに雪男に受け止められたらしい。あの距離からここまで一瞬で走ってくるとは、本当に侮れない奴だ。感謝の前に驚愕してしまう。

 悪い、と言いかけて立ち上がろうとした体を引っ張られ、「おわッ!?」二人で倒れ込んでしまう。体重のせいなのか雪男の策略なのか、いつの間にか燐が雪男を見上げる格好となっていた。泥まみれの地面にぶつけた頭を摩りながら、これでは本末転倒なのではと、恨めしく見上げる。最初に助けられた意味がまるでなかった。

 眼鏡が光を反射させて、表情はうまく読み取れない。

「あのなぁ、雪男……お前も俺も全身泥でずぶ濡れになっちまったじゃねーか……」
「兄さんは元々でしょ」

 なんてかわいげのない奴だと露骨に顔を顰めると、少しだけ笑う。何気ない日常の気配に、ほっとした。
 けれどそれも束の間の安堵に過ぎなかった。


「志摩くんに会ってきたの?」


 雪男の質問に、強要はない。
 それ以上に、執拗にして必要な絶対の意志を感じる、それだけのことだ。強制的にペースに支配される、標的にされたなら逃れることは許されない。無論強要以上に不遜な恐怖ではある。
 ようやく雪男の顔が覗けたから、疑問に感じ取られぬくらいの自然を装って何度か様子を眺めた。つい昨日もこうして互いの呼吸を感じる距離でいたことを、他人事のように思い出す。
 思い出して、唇を開いた。

「偶然だけど、会った」

 開いた直後に、塞がれていた。

「……ぅっ」

 手首を強く縛られ足首も抑え付けられ、まともな抵抗ができない。
 雨粒まじりの唾液が溶け合って、絡み合う。身体は冷えているのに、口腔内は火傷してしまいそうなくらい火花を散らして、真っ赤に燃え上がっていた。
 雪男が火の粉を纏った舌を差し向けて、行為の先端を首筋へと移動する。熱い熱い舌が骨張った筋を舐め上げて、全身がぞくりと粟立つ。湯気が噴き出る幻覚に出遭う。

「ゆ、きお……ッ! おれは、」

 告げようとした言葉を遮って、再び唇同士が激しくひしめき合った。
 強すぎる勢いで歯にぶつけられ、削るように押しつけてくる。雪男のくせに焦ると子供みたいなキスをするものだと、こころだけは冷静な分析を心がけていた。
 身体や唇がどんな温度に埋もれていようと、結局こころは冷たいままだった。




「奥村くん……」

 志摩のキスはいつも、戸惑う燐を気遣って優しいけれど、その先を求められていることを知っている。
 手慣れた口づけに、うまく返事もできずに翻弄されながら、燐は朧気な意識をなんとか繋いで思考を流していた。
 男に求められるという事実に、不思議と嫌悪感はない。寧ろ名付けるならば、その感情は喜びだった。

 他者との関わりを、まるで呼吸のように求めて。
 浅くも深くも受け入れて、時折苦しくなっても構わないと断言できる恋だった。

 恍惚に眼を閉じ交わしていた燐は、「っ!」突然夢から醒めて飛び上がった。
 強く通じていたはずの唇は簡単に離れ、机はまるで溝のように二人の間に立ち塞がり、大きな距離が絶対的にのし掛かる。慌てて志摩が謝罪を口にした。燐は僅かに首を振る。顔色が青ざめている自覚はあった。志摩の手が燐のシャツの中にまで伸びたのだった。本来なら笑って許せるはずの、他愛ない所行だ。

 だけど。

 燐には尻尾が生えている。悪魔の証明である烙印が、この身に刻まれているのだ。

 申し訳なさそうにこちらの様子を仰いでいる志摩からわざとらしく視線を逸らし、そっと呟く。
 ――言えたら、いいのに。
 支度と偽ってこころを静めながら、考えてしまう。
 ――悪魔だって、言えたらどんなに。
 無駄と称してこころを沈めながら、思ってしまう。


 拒絶では、なかった。
 否定では、なかった。
 しかしその先を、あげられない。

 恋の限界は確かに、足音大きく訪れていた。













 感覚を、破壊を伴って侵食して。







 
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