一緒にいると、温かい。
 一緒にいると、落ち着く。
 だからずっと、一緒にいたかった。


「なあなあ、燐」
「んー?」


 勉強会を終えた帰り道だった。

 珍しく二人きりになった幸運を見過ごさず、志摩は積極的に燐に話しかけていた。付き合っているとはいっても、周囲の眼があるため中々好き勝手に進展しない関係なのである。

 ポニーテールに結い上げた長い髪を風に遊ばせながら、燐は志摩を振り返った。宝石のような煌めきが眩しく視界を照らすものだから、一瞬の目眩すら感じながら、唐突とも取れる話題を繰り出す。

「何歳になったら結婚しよか?」

 ぶっ、と噴き出す気配が伝わってきて、予想通りの反応が楽しくて笑う。普段から志摩の軽口には慣れているはずの燐だが、こういった色事には弱いのが疵。恥ずかしいらしく、慌てて返してくるのだ。

「っそ、そんなの、しない!」
「えー、してくれないんか。ショックや……」

 大袈裟なくらい頭を振って天を仰ぐと、空に滲んだ夕焼けの橙が瞼の裏に染み込んでくる。温かく優しいその侵食は、色は違えど彼女の炎にも似ている気がした。

 志摩がのんびりと思考をしている間に、額面通りに勘違いしたらしく、「いや、したくないわけじゃなくて!」と燐は何やら必死に弁明している。可愛い恋人の姿を眼に焼き付けようと、現金な志摩は指の間から様子を覗いた。

「あ、う……えっと、いや、だって俺なんかより、志摩には良い人ができるだろうし……俺なんて料理くらいしか取り柄ないし、だから、その」

 上気した真っ赤な頬を抑えながら必死に言いつのるその姿は、愛らしいとしか言いようがなく、酷い仕打ちだと自覚しながらもつい緩んだ笑顔になってしまう。

「べつに、ちがうから、お前のことが嫌いなんじゃなくて……っ」
「はいはい、分かってますよ」
「む、むしろ――……え?」

 相の手を入れると、急展開していた唇が、ピタリと止まる。そして、恐る恐るというように、口にした。

「……志摩、おまえ」
「うん?」
「また、からかったんじゃねーよな……?」


「えー?」


「お、っまえな……!」

 ああ、もう、幸せすぎる。

 過剰な反応も、素直になれない態度も、何度だって見たくなって、思わず引き出してしまう。首元を締め上げられても笑顔で応じつつ、志摩は続けた。

「ええやないの、結婚。しましょうよ」
「!? か、からかっただけの癖に……!」
「そんなわけないやろ、勿論したいにきまっとるよ。それでな、子供も二人は欲しいしなぁ、」

 その時。強く握っていた手が、落ちた。

「、え?」

 あまりにも突然のタイミングだったから、うまく反応ができない。志摩に触れるのを怖れたように手を離した燐は、青い顔をして、後ろを向いてしまう。途端に自分が罪深い人間のように感じられて、慌てて志摩は頭を下げた。

「す、すまん。俺、いつもやり過ぎで、」
「ちがう」

 短い言葉は、拒絶の意志のようにも受け取れて、驚いて半歩後退る。呼吸を荒げているでもないのに、胸に両手を添えて俯く燐の背中は微かに震えていた。きっと唇を噛みしめて泣きそうなほど眉を顰めているのだと、想像だけは立派に働く。

「たいしたことじゃ、ないんだ。でも、大事なことだから」
 
 ああ、言いたくないことを、志摩のために口にするのだと、その矛盾した前振りで悟る。

 燐は振り向いた。
 生じた義務感からなのだろう、大切な話を眼を逸らして発するわけにはいかないと、追い詰められた唇が、小さく開く。

 あまりにも綺麗だったから、志摩も結局、逸らせない。



「魔神の仔に、子供はできちゃいけないんだってさ」



 確かに、心臓が止まったと思った。

 告げられた内容よりも、その表情が物語る苦痛が、苦悩が、悲痛が、志摩へと襲いかかり、けれどその激流は静かなものだった。寧ろ荒波となって迫りくれば対抗の策を打ち立てる危機感すら派生したかもしれないのに、一瞬でこころを串刺しに通り抜けていった刃物は猶予すら与えてはくれない。通った後にようやく、凪いだ空間に風がそよいだのを肌が感じた程度だ。志摩が動けないでいる間に、燐は続ける。続けてしまう。止めるべきだと、止めさせるべきだと理解っているのに、手が出ない。動かない。凍り付いて、硬直する。

 固まったままの表情を眺めて、燐は小さく笑った。笑顔の存在が憎らしくなるほどに、涙の似合う顔だった。

「……うん。当たり前のことだよな。だからさ、志摩も、俺と――」

 一息、ぐっ、と呑み込んで、吐き出す。それだけで、目尻が僅かに濡れていた。目を離したら嘔吐に溺れて死んでしまいそうだった。だから志摩は瞬きも許されなかった。

「結婚、なんか…………しちゃ、だめだよ」

 それが、その日聞いた、燐の最後の言葉だった。

 その言葉の束縛を、隠された意図を、気づく努力すら至らぬままに。




おかえりなさい (ひとり、部屋で膝を抱えて、望むひとが巡るまで)





 誰もが陰鬱な表情で俯いていた。

 小さなきっかけさえあれば、誰彼構わず顔を上げて声を荒げ足を振り上げて飛び出さんばかりの緊張と静寂にその教室は包まれていた。ただ、そのきっかけだけを頼りに、或いは惑いの拠り所としながら、待つしか出来ない状況の歯痒さに自然と押し黙っていた。無神経な会話は、余計に気分を沈ませるだけと理解していたのだ。

 突然に、沈黙していた扉が勢いよく開かれた。

「!」

 ばっ、と一斉に顔を上げた祓魔塾の面々は、教室に入った人物が自分たちの教師であり同学年に在籍する奥村雪男であると知ると、少しは肩の力が抜けたようだった。しかしその表情を見て取れば、甘い反応がいかに場違いであったか気づき、より一層空気は重くなっていく。
 最初に口を開いたのはしえみだった。

「ゆ、雪ちゃ……燐は、」

 傍目から見ても明らかに真っ青な顔をして、震える唇で懸命に言葉を紡ぐ少女の姿は痛々しい。今にも泣き出しそうなほど表情を歪めながら、聞かないわけにいかないそれを、確かに形にした。

「燐は、どうなったの…………?」

 雪男の眉が険しく顰められた。何かを我慢しているようでもあった。しえみと同じ、泣きたいのにそれを許されないとでも言うような、強い覚悟を伴って。強迫と責任感に押しつぶされそうになりながら、雪男は教壇の前に立つと、彼を見上げる幾つもの瞳と向き合い、短く口にした。


「奥村燐は地下の監房に入れられました」


 時が凍りついた。
 お気楽な展開など許されない、紛う事なき厳しく残酷な現実がのし掛かり、年若い彼らを奈落へと突き落とす。絶句の中で唯一、しえみが「なんで」と呟いた。雪男自身に向けられたものではないそれは、虚空に消えていく問いだった。

「なんで、燐は……わたしを」

 勝呂も、志摩も、子猫丸も、出雲も、その吐息に近い呟きを耳にしながら、黙っている。

「助けてくれた、だけなのに……?」

 まさしくそれは、彼ら全員の疑問を代弁した、確かな事実であったからだ。




「ちょっとあんた! そっち行ったわよ!」
「あんたって……名前で呼んでくれんと誰のことか分からんよ出雲ちゃんッ」

 背後に迫っていた小鬼(ホブゴブリン)を慌てて錫杖(キリク)で薙ぎ払う。助かった、と息を吐く暇もなく、次から次へと襲いかかる悪魔の群れに志摩は涙声で叫んだ。

「何体倒しても全然減っとらんよー! 奥村さんどうにかしてー!」
「なっさけねえこと叫ぶなっつの!」

 沸いてくる鬼(ゴブリン)を倒しつつ、燐も思わず不満を露わに絶叫してしまう。

「くそ! 簡単な任務だとか言ってたくせにあのホクロメガネ……!!」


 ――候補生(エクスフィア)全員で任務に赴けと達しがあったのは、昨日のことだった。


「廃村を拠点として、ゴブリンが住み着いてしまったようです。近隣の村への被害も出ているとのことなので、君たちに退治を任せます。ゴブリンは魔力自体は大したことはないですが、女王や王を中心としてコロニーを築いていることがあります。皆さん注意してくださいね」

 雪男に見送られ、付き添いの椿と共に学園を出る時は、任務らしい任務が来たと皆で喜んでいるくらいだったのだが、まさに難題に直面している現在はそんな軽い気持ちではいられなくなっていた。

「あの教師はどこほっつき歩いてるんや!」

 印を組み終わった勝呂が吐き捨てた。子猫丸が苦笑する。

「また、携帯出してどこか行ってしまわれましたね……」
「一応引率だったはずよね、あの人!」

 しえみに救援の白狐を放ちながら、出雲も肩を竦める。後方支援を担当する彼らを護るのは出雲の役目になっていた。その心遣いに頭を下げながら、しえみは普段の温和な姿からは想像のつかない鋭い声色を飛ばす。

「ニーちゃん!」

 主であるしえみの声に応じるように「ニー!」と鳴いた緑男(グリーンマン)の体内からニョキニョキと大木が出現した。勝呂に飛びかかろうとしていた巨大なゴブリンが進攻を阻まれ後方へ吹っ飛ぶ。その隙に終えた詠唱が一気に大群を消滅させた。

「ありがとぉな杜山さん! たすかったわ!」
「うん!」

 その前方で、燐と志摩は戦い続けていた。キリクを両手で操りながら、志摩は燐に向かってこっそりと口を開く。

「燐のコトは俺がしっかり護るからな、安心してや」
「俺は強えからいらねーよ! ばーか!」

 燐はがむしゃらに剣を振り回しながら答えた。その態度が気恥ずかしさ故と気づき、戦闘中に関わらず思わず頬が緩む。

「お前ら、深入りしたらやられる! 一度こっち帰ってこい!」

 別に狙ったわけではないのだろうが、勝呂の大声に会話を遮られ、志摩はむっと頬を膨らましながら応じた。

「何や作戦でもあるんですか、坊!」
「大分祓ったからな、そろそろ王のお出ましのはずや――」

 勝呂の言葉に重なるように、ゴゴゴ、と腹に響く音を立て大地が揺れた。廃村の家々を踏み潰し、地上に深い影を伸ばしながら現れたそれは、王と呼ぶに相応しい巨体を揺らし、迫りつつある。

「これはまた……規格外の大きさやな」

 唾を呑む志摩の背後から、力強く勝呂の声が飛ぶ。

「埒が明かん、まず王を倒して陣形を崩す! 俺が詠唱担当や、奥村に志摩、あいつの注意を引きつけて俺らから遠ざけてくれ! 神木も援護を頼む! 子猫と杜山さんは俺の周囲を任せた!」

 ゴブリンの間を器用にすり抜けながら、出雲が燐達に合流する。一度心配になって後方を振り返ったようだが、問題ないとしえみが頷いたようだ。三人で王の足下へと向かう。

「っしゃ、一気にいくぜ!」
「えー、また難しいことを……」
「奥村を見習いなさいよ、あんたも突っ込みなさい!」
「俺が先鋒!?」

 力ある言葉を唱える勝呂の周囲のゴブリンを祓いながら、子猫丸はしえみの存在に内心安堵していた。植物を自由自在に取り出す使い魔の力は甚大で、詠唱に専念することができる環境が有り難い。

 しかし、強すぎる集中力、勝呂に頼る心、しえみへの信頼による一種の油断は、感知の遅れを意味していた。一方、勝呂達を援護し続けていたしえみさえ、自らに危機が迫るなどと思い至っていなかった。何故なら、そうなる前に出雲が全てを薙ぎ払い、護っていたからである。

 だからこそ。
 最初にその状況を目にしたのは、燐だった。

 勝呂が眼を閉じ唇を動かしている、子猫丸がその右方で手をかざす、
 そして使い魔を夢中で使役するしえみの後ろで、蠢く闇。

 その存在を目にした時、既に燐は駆け出していた。成人の大きさを遙かに上回る巨体のゴブリンが、その大木のように太い腕を振り上げる。ようやく敵の気配を悟ったしえみが身体を凍らせていた。恐怖に身体が動かないらしい。どんなに急ごうと間に合わないと直感し、燐は思わず手を伸ばした。


 怒りが、青く染まる。空を焦がし、地を焼く。


 顕現した青い炎とは正反対に、真っ赤な逆上を燃やしながら、燐の炎がしえみの背後のゴブリンに届いた。ゴブリンは一瞬にして炎に巻かれる。怒号に近い断末魔の悲鳴を上げるその巨体の周囲の悪魔すら燃やし尽くして尚、炎の勢いは止まらない。

「燐ッ!」

 志摩の声にハッとなり、慌てて燐は眼を瞑った。炎は生き物のようなもので、燐の与える意思を喰らうように出現するのだ。怒りを抑えなければ、炎は消滅しない。

「消えろ……消えろ……ッ!」

 その命令はどうやら届いたらしい。
 燐が炎を消したその時、辺りには悪魔の残滓が散らばっていた。唖然としている志摩や出雲の目の前に、先程までの王の姿はない。揃って燐の炎で焼かれたのだ。

 しかし彼らは、そのことに驚いているのではなかった。燐の首筋に鋭利にぎらつく刃を掲げた人物を前にして、正常な反応ができずに立ち尽くしていた。

「お、まえ、は」

 燐の呟きは掠れていた。

「久しぶりに会うな、奥村燐」

 ゾクリ、と背筋が恐怖で粟立った。殺意を向けられ、足を切断され、処刑を迫るあの美しくも残酷な声が、耳元で囁く。


「――忌まわしき魔神(サタン)の仔」


 アーサー・O・エンジェル。ヴァチカン本部に所属する、上一級エクソシスト。そして、現聖騎士(パラディン)の称号を持つ男だ。
 身動きの取れない燐は、背中に嫌な汗をかきながら、必死に思考を巡らしていた。

 ――何故こいつが、ここにいる!?

 本来、偶然の遭遇など有り得ない相手だ。日本にいること、支部でもない場所にいること、何よりこの行為の意味は? 理由など無しに仕掛けてきたとしてもこの男なら可能性を捨てきれないが、雪男から何の情報もなかったことも引っ掛かる。疑問ばかりが溢れかえっていた。
 沈黙を破ったのは、エンジェルだった。

「炎の暴走により、奥村燐を拘束する」




「……しえみさんの所為ではありません」

 静かな一言に、全員の視線が集まる。

「力を使った姉が悪い。それだけのことだ」
「な……!」

 そのあんまりな物言いに、勝呂がずかずかと前に出た。制止しようとした子猫丸の腕を振り払い、雪男と真正面から対峙する。

「アンタ……奥村の弟やろ? アイツのことが心配じゃないんか!?」
「次から次へと問題ばかり起こして、迷惑な姉だとは思っていますよ」

 勝呂が勢いよく飛びかかった。出雲が短い悲鳴を上げる。頭を壁にぶつけられても、雪男は眉一つ動じない。その態度が余計に苛立ちを加速させた。

「……放してもらえますか? 授業に行かないといけませんから」
「ふ、ざけ――」
「やめて!」

 悲痛な訴えが、振り上げかけた拳を食い止めた。しえみは真っ青な唇を震わせ、込み上げる思いを吐き出した。

「私の……、私の、せいだもん……」

 連行される直前、燐はしえみを振り返り、「大丈夫だったか?」と聞いた。

 本当は、責められるべきであったのに。自分より他人を優先してしまうその優しさが、哀しくて、申し訳なくて、自分が情けなくてたまらない。

「どうしよう」

 もう何を口走っているのか自覚できず、途方もない苦痛に押し潰され、しえみは血を吐くように呻いた。

「燐がここに、帰って、こなかったら……どうしよう……!!」




 誰もしえみを、責めることなどできなかった。
 勝呂は己の立てた作戦をずっと後悔していた。子猫丸は気を抜いた自分を恥じていた。出雲はしえみの傍にいなかった事実を苦しみ続けていた。しえみはほとんど、笑顔を見せなくなった。
 そして多分、その中で。一番酷い顔をしていたのは、志摩だった。

「志摩くん」

 教官室の前で待っていたのは、雪男とシュラだった。志摩は彼らに呼び出され、普段決して寄りつかない場所に歩いてきたのだ。たった一人で呼び出しを受けた、それが示す可能性に、全ての期待を賭けて。

 鋭い眼差しの志摩を一瞥した。腰に下げてある鍵束から黒ずんだ大きな鍵を取り出し、雪男はそれを扉の鍵穴へと差し込むと重々しく開いた。

「では、行きましょうか」

 気負わない足取りで入っていく二人の後、小さく息を吸い、志摩は続いた。既に、どこに連れて行かれるか大体の検討はついている。走り出したい衝動を抑え、足音すら忍んで注意深く周囲を観察する。

 そこは監獄だった。

 錆び付いた牢の中に、鎖に繋がれた囚人、干涸らびた骸骨などはさすがに転がっていないが、用途を連想させる道具ばかりが暗闇の奥に無造作にちらつく。息苦しさと不安が腹痛を生んだ。二人の足音だけを頼りに進む道が、本当に正しい未来なのか分からなくなる。澱んだ空気が余計に焦燥を湧き上げた。

「あ、あの、若せんせ」
「安心してください。もう着きましたから」

 我慢できず声を発したその時、足音は止まっていた。その数歩分後ろで、志摩も硬直してしまう。眼にする光景が確かであることを、二回の瞬きで信じて、飛び込んだ。

「燐……!!」
「……え? 志摩?」

 牢の隅に横たわっていた影が、もぞり、と動く。黒髪を闇に溶け込ませ、起き上がったその華奢な少女は燐だった。呼びかけに応じた声に安堵の吐息を洩らし、志摩は鉄格子を掴んで、そこに座り込む。次に慌てたのは燐なのだろう、「ど、どうしたんだよ」と何故か照れくさそうに呟いて寄ってきた。牢の存在に阻まれてはいても、先程までと比べれば、ずっとまともに心は落ち着いていた。志摩は顔を上げると、心配そうな瞳に破顔する。

「もう会えなくなるかと……思ってしもた……」

 弱々しい呟きに、「ばか」と燐は苦笑する。志摩の背後で、シュラがにひひと笑った。

「ほうら、言った通りだったろ? 燐はこいつが来れば元気になるってさー」
「……そうですね」
「おやおや、悔しいのかにゃ、弟クン?」
「五月蠅い」

「図星だったかにゃ〜」と更に一笑したシュラは、「おーいそこのバカップル」と揶揄するように声をかけた。

「ピンク頭をここに連れてきたのには意味がある。そこんとこちゃんと理解しとけよ?」

 その言葉に反応し、志摩が口を開いた。

「俺を奥村さんに会わせといて、他のみんなにその事実をありのまま話す。説得された塾のみんなは、奥村さんに会えないながらも毎日を今まで通り送る責任感を持つ。ほいで、俺はそれからもここに通うことを許され、みんなへの報告を続ける。……と、こんなところとちゃいますか?」

 驚いた燐の視線を横顔に受け止めながら、志摩はシュラ達を睨んでいた。敵意こそ灯ってはいないが、その決定にありったけの不服を示しているらしい。何でもなさそうに雪男は頷いた。

「大方その通りです。ヴァチカン本部から指示があるまで、奥村さんはこの学園の地下に拘束されることになりましたから」
「燐の処分がどうなるかはあたし達にも分からんしな。ま、しばらくの間は安心しててもいいかもにゃ?」

 無責任な発言に雪男の殺意が飛ぶが、シュラは気にする素振りもない。懐に手を突っ込んで鍵を取り出すと、志摩へと手渡した。

「これは……?」
「んー、地下への鍵だ。特別措置だから絶対に失くさないように気をつけろよ」

 燐に会う手段と口実を得た志摩は、とりあえず頷いた。手の中の冷たい感触が、唯一絶対の頼もしいものに思えてくる。

「まあ、これからも燐の傍にいてやってくれよ。不安にならないようにさ」

 何気ないシュラの言葉が、なぜだかひどく胸に残った。




「……なあ、志摩」
「うん?」

 二人がいなくなった後、残された志摩は、燐の頬を撫でながら、その言葉を聞いていた。混乱する頭と心を落ち着けるための行動は、燐にとっても安らぎを与えているようだった。気持ちよさげに眼を細めて、志摩の指先にされるがままになっている。

「聞きたいことが、あんだけど」

 声は沈んではいなかった。だから、志摩は指の動きを止めなかった。見える温もりを追いかけることこそが、尤も正しい行動と躊躇わなかった。
 志摩の耳朶をくすぐったのは、頼りなく弱々しい、泣き声のような響きであったのに。

「俺がたとえ何をしても、お前は、ゆるしてくれる?」

 真意を紐解けず。理解を、容認せずに。
 特に何も考えず、「勿論」と軽く頷いた。それが無条件の愛の証明だと思っていた。
 そんな志摩に対して。
 燐は怒らなかった。呆れも、嘆きも、泣きも、せずに。
 ただ、「そっか」と小さく呟いた。




 それから暫く、忙しさに忙殺される日々が続いた。

 燐は外に出ることは叶わなかったが、志摩は毎日のように地下へと通った。授業や任務が終わると一目散に飛び出し、会いに行き、その日の出来事を報告する。それが日課となっていた。雪男には睨まれていたが、志摩にとっては唯一の至福の時だ。以前と比べれば、重く不自由な、逢い引きではある。あらゆる状況に阻まれた関係といえた。本当は、手を繋いで隣で歩きたいし、馬鹿みたいにふざけて笑い合っていたい。燐の顔を見るたびに思いは募ったが、その時はまだ不完全燃焼に燻っているだけだった。

「……は……?」

 呟きは、喜びと驚きで掠れていた。
 呆れ面のシュラは、「だからにゃー」と、再び同じ言葉を唱える。何の躊躇いも深刻な様子もなく、まるで明日の天気を口にするような何気なさを伴って、平たく。

「燐、牢から出られるよ」
「……っ」

 見開いた眼に、光が弾ける。興奮で頬が真っ赤に染まっているのを自覚した。口元を震わせ、衝撃で壊れそうな心臓を服の上から抑えて、

「よ、よか……っ、」
「ほんに……ほんに出られるんですか!? 奥村は!!」

 勝呂に詰め寄られても、シュラは頷くばかりだ。子猫丸がへたれ込んで安心の吐息をついていた。しえみは慌てて目元を拭い、出雲は皆から目を背けて鼻を小さく鳴らしている。

「はいはい。いいから早く行ってきな。お前らみんなでさ」

 シュラの一言を合図に、先を競るようにして塾生達は教室を飛び出していく。ひらひら、と手を振りながら彼らを見送ったシュラは、入れ替わるように入り口から姿を現した人物に、軽く口笛を吹いた。

「よ、ビビーリ・ド・メガネくん。遅い到着だったにゃ」
「……シュラさん、今、彼らとすれ違ったんですが……」

 挨拶の言葉もなく本題を切り出した雪男は、ブーツの底を硬質に踏み鳴らし、無表情にシュラを見下ろした。眼光は、眼鏡に反射して浅く映るのみ。だが、その明確な殺気だけは何物にも遮られず迸り、目の前の敵を射殺さんばかりの激情に荒れていた。

 対するシュラは、臆することなく、やはり、頷いた。

「うん、言ったよ。燐が牢を出るって」

 ガッ、と鋭く空気が裂ける。
 雪男が片腕で、シュラの首元を吊り上げていた。
 足が床から浮きかける激しい締め上げに、シュラは何の弱音も吐かず、咳き込むことすら耐え、冷めた視線を雪男に送るばかりだ。その態度が、更に怒りを増幅させる。

「ふざけてんのか……! ッそんなのは」
「うん、そうだ。ただの戯れ言に過ぎない」

 まやかしの言葉すら含まずに、一方的に事実を告げる。それは正しく、それは間違いだった。弱い雪男にとっては嫌悪と憎悪と侮蔑を感じずにいられない、真実だからこそ。

「でも、あたしは、あいつが苦痛の中で生きるのだけは嫌なんだ」
「……ッ」
「理解ってなんて言えないけどさ。こう見えても一応同じ女なんだよ」

 蔑むほど細められた瞳の奥で、小さく光が爆ぜた。垣間見えたシュラの弱々しい訴えがあまりに切実で、雪男は何も言えなくなる。計算高さも、悪戯心も、猫のように無邪気な邪気さえ、なりを潜めて。シュラはぽつりと、呟いた。頭は力なく、項垂れていた。

「ごめん」
「!」

 右手を、拳の形に握りしめて。
 溜め込んで、振り絞って、差し向けた。

 シュラは眼を閉じていなかった。黙って唇だけ閉じていた。弾圧を、断罪を、望む咎人のようだった。迫る拳から、一ミリすら逃げないと誓っているようでもあった。

 回避できない一撃は、鼻先で、ぴたりと止まる。
 止まり、次いで首の圧迫からも解放されたシュラは、激しく咳き込みながら、涙目で雪男を仰ぐ。

「ばっ、か……だからお前は、……ッ」

 ビビリなんだよ、という雑言は、もう口の端に乗せる力すら残ってはいないようだった。座り込んだシュラを静かに見下ろして、雪男は、一つの慰めすら口にすることは出来なかった。




 会いたい。
 ただ、会って、お帰りと、抱きしめたい。

 毎日のように通い詰めているからこそ、余計に強く焦燥が募るのかもしれない。面会を許されていない塾生の皆より、もう一歩を踏み込んで走り続けた。誰かのためにこうして必死になるなど、面倒臭いと全てを投げやりにしてきて志摩にとって、生まれて初めてのことだった。

 白い壁、廊下の角を、幾つ過ぎたか分からない。ひどく息が切れ始めた頃にようやく、いつもの扉が見えてきた。鍵を取りだそうと胸ポケットを探るが、慌てすぎて中々うまく出てこない。

「なんや、うまく出て来いひん……!」
「何や、早よせんか志摩ッ」
「し、志摩さん落ち着いて。坊も」

 勝呂達に急かされたり宥められたり、と散々に繰り返し、何とか志摩は鍵を発見する。今か今かと見守っている塾生の視線を受けながら、金属質の扉に向かって差し込み、開けようとした。同時に、扉は志摩に向かって開け放たれた。

「わぶッ! な、何や……?」

 打った鼻をさすり、勢いに押され数歩後ろに下がる。しかし出てきた人物を眼にした瞬間に、そんな挙動すら満足に行えなくなっていた。
 燐ではなかった。彼らの目線の先に飛び込んできたのは、仲間の姿ではなかった。

「何事だ? 騒がしいな」
「……は……?」

 聖騎士(パラディン)エンジェルが、眉を顰めて志摩を見やり、その後方をも不躾に眺めてから、面白くなさそうに呟く。

「諸君ら、見送りにでも来たのか?」

 何故、またも、このような局面に、この男が登場するのか。

 思考が停止しかけた志摩は、その腕に無造作に引きずられる華奢な存在にも、暫く注意がいかなかった。長い黒髪を垂れ流し、重苦しい沈黙を紫の唇に包んで、ふらふらと扉をくぐった少女。

 正体を突き止めた途端、声をかけようとした。ただ、志摩を含む誰も、行動には移ることができなかった。力なく項垂れ、黙する燐に向かって、何を呼びかければいいのか理解らなかった。

「これはこれは、盛大な送別会となりましたね」
「……メフィストか」

 まるで空間をねじ曲げたように、突然の来訪。事態を呑み込めない彼らの前に、学院長すら颯爽と現れ、この状況を困惑に貶めていく。目に痛いピンクに身を包み登壇したメフィストは、エンジェルの腕に絡め取られた少女を一瞥し、少し機嫌が悪そうに眼の色を軋ませた。

「……おやおやエンジェル、お嬢様(レディー)に向かって些かぞんざいな扱いではありませんか?」
「此度の問題、もうお前は言い逃れはできない。他人の心配をするとは余裕だな」
「申し訳ありません、当方他人ではないもので、ね」

 露骨にぞんざいな笑みを向けてくるメフィストから眼を逸らし、塾生の子供達を見遣る。その瞳から的確に困惑と疑念を読み取り、なるほど、と躊躇いなく告げた。

「グレゴリ以下査問委員会賛成多数により、奥村燐の終身刑が決定した」

 やはり知らなかったのだろう、彼らの表情が硬直した。やれやれシュラめ、と肩を竦めてから、エンジェルは強く燐を引っ張った。大きく身体を震わせた燐は、長髪の合間から顔を覗かせて、虚ろに視線を泳がす。至近距離に関わらず、志摩達を見つけるまで十数秒時間がかかった。それだけで、どれ程に追い詰められた精神状態にあるのか嫌でも想像できてしまう。

「……あ……みんな、」

 息を呑んで、待つ。誰も遮ることが出来ない。その言葉の意味を、意図を、計れないほど愚かな人間は誰一人としていなかったのだ。

「俺……ごめん、もう、会えないけど……」

 志摩の後ろでしえみが、ひ、と短く鳴いた。泣き崩れてしまいそうなしえみに弱く笑顔を見せて、燐は切れ切れに続ける。

「ここが、居場所で……良かった」

 ありがとう、と。
 言い終わった瞬間に、

「アインス ツヴァイ ドライ☆」

 メフィストが召喚した奇怪な形の牢に、燐は吸い込まれた。咄嗟に手を伸ばしかけた志摩は、燐の指に確かに触れかけた。脆い微笑は、光に溶けるように霧散した。

 待て、と志摩は言いたくなる。待ってくれと叫びたくなる。もう訳が理解らない。いつから現実はこんなにも残酷な色を帯びて襲いかかっていたのか。何の予兆もなしに激流に呑まれ、口答えする前に溺死する。反論も反抗も許されず、抑圧され封じられるだけ。無力感と絶望感が胃に込み上げて、吐き気に押し潰された。胃液の苦汁が喉の奥でつんと鈍く弾けた。

 その過剰とも取れる反応を訝しんだのか、エンジェルは志摩の耳元に口を寄せた。

「奥村燐の恋人だったというのは君か?」
「!」

 脊髄反射が脳を焼き切るほどの速度で顔を上げると、薄く笑われる。失笑であり、嘲笑だ。端整な顔をした男が発するのは、痛烈な卑下を隠そうともしない罵詈雑言だった。

「悪魔に堕ちるとは、愚かなものだ」
「……ッ」
「あの忌まわしき魔神の仔は俺にすら尻尾を振るのかな?」

 何を言われているのか、理解できない。脂汗の滲む顔を上げると、細められた瞳が、次は笑わずに囁いた。

「終身刑は世間体に過ぎない。奥村燐の能力は確かに危険だが、ただ殺してしまうには惜しい逸材だ」
「……何が、言いたいんか分かりまへん」
「本当は、予想くらいはしているんじゃないか?」
「……」
「仔を産ませ、新しい兵器を製造するそうだ」

 麻痺しきった思考回路は、ショート寸前に弾けた。もう一歩も動けない。ここに辿り着くまでに、軽く浅くと繰り出された一歩は、もう、進めない。

「何なら、君と相手役を代わっても構わないが」

 挑発に誓い侮蔑にすら、応える気力はなかった。エンジェルは哀れみを込めて志摩の肩を叩き、すれ違う。
 塾生たちは、お互いに言葉を交わす余裕もなく、暫くの間、その場に立ち尽くし放心することしかできなかった。




 メフィストの用意した牢から放り出された燐は、新たな監獄に入れられていた。暗闇の中、手探りに辺りを観察するが、学園の地下とはまた異なる場所だ、ということ以外何の手がかりもない。思わず溜息をついた。

 それから、規則的な足音が金属製の床に反響して聞こえてきたから、咄嗟に身を伏せて、起きていないふりを決め込む。しかし、吐息に近い音量の声は、意外な人物のものだった。

「やあ、姉さん」
「雪男か?」

 重苦しいコートに身を包んだ実の弟が、鉄格子越しに佇立していた。面会の許可は下りているのか訊きたかったが、躊躇いなく腰を下ろす雪男に何故かひどく申し訳ない気が立ち、燐も姿勢を正す。無意識に正座してしまい、小さく笑われた。

「ん、だよ」
「いや、最近姉さんとはまともに話してないなと思って」

 最近も何も、これから一生を幽閉され過ごすのだろう燐にとって、これは雪男との最後の会話といえた。訂正しようとして、聡い弟がそれを理解していないわけがないと踏み止まる。必死に眼を背けている事実を、突きつける必要はないと思った。

「随分と……遠いところまできたよね」
「ああ、まさかヴァチカンまで来るとは思わなかったぜ」

 わざと意味を、逸らす。雪男は笑って、燐を見た。レンズ越しの瞳はちっとも、笑っていなかったけれど。

「やっぱりあの時、死んでおけばよかったかもしれない」
「まあ、俺もちょっとは、後悔してるよ」
「今からでも遅くはないかな」
「ばっか。お前が背負う必要なんてねえから」

 本当に、随分と、遠くまで来てしまった。言う通り、雪男に殺されていれば楽だったかもしれない。そうすれば少なくともこんな目に遭わずに済んでいたのだから。女の存在性を犯されいたぶられることなど、経験せずに一生を閉じることができただろう。

 それでも、もし彼に逢えない世界と思うと、やっぱり悔やめなかった。

「……姉さん。一つ、いいかな」
「何だ?」
「志摩君と付き合ってること、どうして隠してたの?」

 茶化す場面ではなかった。鉄格子を握った震える手に手を重ねると、余計に震えは大きくなる。弟ひとりの迷いを拭えぬなんて、姉失格だろう。だからもう、誤魔化す必要はないと、口にした。

「お前が哀しむって、理解ってたから」

 震えが止まった。それでも決して雪男が救われたわけでないと、燐は知っている。知っていて、知らんぷりは、しなかった。
 そう、と雪男は小さく呟いた。そう、と燐は大きく頷いた。

「じゃあさ、そんな姉さんの思いを汲み取らずに、僕の気持ちを伝えてもいい?」
「……おう。いいぞ」
「姉さんのことが好きだよ」

 鉄格子にしがみついていた手は、縋り付くように、燐に伸ばされた。次は恋人のように繋ぎ合って、それでも、距離は一段と遠い。

「ずっとずっと前から、だれよりも、好きだったよ」

 何とか少しでも埋めようと、接近してきた弟を、燐は拒まなかった。了承のかわりに眼を閉じた。

 キスをした。
 唇を塞ぐそれは、雪男みたいに頑なで、仄かに冷たい。

 数秒の禁断を過ぎて、離れた唇は、噛みしめられて血が滲んでいた。拒まない、拒めない姉と知っていて強請ったことを恥じるように、雪男は頭を下げた。繋ぎ止めるための行為が、彼を奈落へ押しやってしまった気がした。

「ごめん」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
「ごめんなさい、姉さん」
「うん」
「守れなくて、ごめんなさいっ……!」

 汚れた床に、黒い点が幾つも落ちて、吸い込まれては消えていく。その光景を眺めてから、燐は雪男の頭を撫でた。堪えている嗚咽が激しくなるから、もっと泣けばいいのに、と思う。

「俺こそ、お前を――」

 走馬燈のように、思い出が駆け巡る。獅郎と、雪男と、修道院の皆との日々は、光り輝いていて、今ではもう近づけないくらいに、眩しい。

 ずっと見守ってくれていた獅郎はもういない。そして燐がいなくなった世界で、果たして雪男は、誰と並んで歩いていくのだろう。誰を支えに、生きていくのだろう。

 自分と同じ、何の保証も持たない双子の弟を前にして、とうとう一粒、涙が落ちた。
 その雫は、雪男の頭に落ちたけれど、やはり消えていった。二度とはもう、帰れないのだと悟る。

「――守れなくてごめんな、雪男」




 片割れとの離別を終えた燐は、あてがわれた部屋を見回した。

 簡素な造りだ。貝のように白い壁は染み一つ無く、牢獄生活が長かった身には清潔すぎて不審に思うほどだ。家具はベッド、ソファ、テーブル、椅子とこれまた最低限のものしか揃っていない。洗面所やシャワールームは直接繋がった別室にあるらしいから、生活に支障はないだろう。同行してきたエンジェルの説明によればいずれは蔵書の類が持ち込まれるらしいが、全く嬉しく感じない。せめてゲーム機くらいは欲しいと我が儘を言ったら、渋々ながら了承をもらった。

 なんてことを考えていると、突然背中を強く押され、「うわッ!?」ベッドに転がり込んだ。体勢を立て直す間もなく、エンジェルに押し倒された燐は、にやりと挑発的な笑みを浮かべる。

「サカってんなパラディン殿。一息つく余裕もねーのか?」
「強がりはよせ。処女なんだろう?」

 下品な言葉に眉を顰める。図星であるが、この男からの指摘は何もかもが苛つきを覚えさせるのだ。

「彼氏にお前との今後の予定を伝えたら固まっていたからな」

 続いた言葉は、取り繕った冷静さを纏めて吹っ飛ばすものだった。

「志摩に、言ったのか……?」
「ああ。伝えない方が良かったか」

 答える気力すら失い、燐は呆然としてしまう。エンジェルは構わず、重そうなコートを脱ぎ始めていた。華美な装飾は相当な重量があるのだろう、ただ脱ぐにも時間が要るらしい。それに対し、燐は不安になるくらい薄手な服を着ていた。ここに連れてこられる前に着替えさせられた白いワンピースは、長い黒髪と相まって、絶妙なコントラストを演出している。履き慣れていないのだろう、たまにもじもじと太腿を擦り合わせる仕草すら初々しく、男の情欲を誘うとこの娘は知らない。

 よく引き締まった身体のラインが透けてみえそうだと、無遠慮な視線で眺め回していると、「ジロジロ見てんじゃねーよハゲ……!」と威嚇に近いが少々弱い呻き声がした。のし掛かられて苦しいのだろう、浅く息を吐いて心持ち頬が紅潮していた。

「これから身体を重ねるというのに、その言い様はないだろう。第一俺はハゲてない。シュラを師に持っていただけある、面白い冗談だ」

 暢気に笑う男を前に、燐は戸惑いを隠せない。積もるイメージは悪かれ、祓魔師最高の名誉ある称号を持つこの男に関する情報は如何せん乏しいのだ。どう対応すればいいのか分からなかった。

 困惑を滲ませ沈黙していると、エンジェルが僅かに眼を細めた。その前動作が危険な兆候だと本能で理解している燐は、咄嗟に逃げかけた。優男といえど勿論どかせられるわけもない。ひ、と喉が喘いだ。

 露わになっている白い首筋を、エンジェルの舌が舐めている。ざらついた感触が気持ち悪くて、いやいやと拒むが受け入れられるはずがない。更には小さな胸に手の平が置かれ、ゆっくりと撫で始めた。今度こそ総毛立ち、無我夢中で叫ぶ。

「やめ、っやめろ触んな!!」
「君の命令は聞けない。自分の立場を理解しているのか?」

 もがくが、締め付けが強くなるだけだった。両手を拘束され、鎖骨を噛まれた燐は、恐怖に震えることしか許されない。太腿を撫でさすられ、その手が少しずつ上がっていく感触すら、戦慄を加速させた。

「あ、ぐ、う゛、う……!」

 獣の首を捩った時に似た千切れた叫びに、エンジェルは溜息をついた。これでは色気もへったくれもない。あのエクスワイアの少年が執着する悪魔、しかも魔神の仔とくるならば、男心を掌握する術でも身につけているものだと少しは期待していたのだが。

 ただ、身体は綺麗なものだ。白い肌は柔らかく、歯をたてればすぐに赤い跡がつくほど敏感だった。無造作に伸ばされた黒髪は稀にエンジェルの腕に絡まって、もどかしく表面を滑っていく。

 エンジェルもこのような地位に立つ男だ、今まですり寄ってくる女性など、一人や二人ではなかった。彼にとっては女を抱くなど名声を大きくする行為以上の意味は持たなかったし、自慰の手間暇を省くための道具として扱っていたといっても過言ではない。

 悪魔の殲滅を信条と掲げた男だからこそ、有能な遺伝子を掛け合わせる繁殖雄犬として扱われることに大きな屈辱を感じた。しかも相手は忌むべき魔神の仔なのだ、こんな馬鹿馬鹿しいことが有り得るだろうか。

 慣らしもせず挿入して血塗れにしてやろうかと残虐に思考しかけたその時にようやく、真下の異変に気づいた。先程まで暴れていた燐が、一切の抵抗を止めていたのだ。

 恭順する気になったかと眺め、エンジェルは、大きな瞳を伝う水滴に眼を見張った。
 燐が泣いていた。透明な雫を目尻から落とし、しかし事実を認めたくないのだろう、エンジェルから顔を背け、歯を食い縛って耐えていた。

「悪魔も、泣くのか」
 単純な驚きの声を上げてしまう。倒すべき敵以外、以上、以来の価値を持たない悪魔が、まるで人間のように哀しみに濡れる光景は、非現実的で、幻想的で、魅惑的だった。見苦しいと拭ってやれば、切なげに眉を顰めるものだから、思わずエンジェルはその名を呼んだ。

「燐」

 響きは、鋭く、冷たく、柔らかく、求める。呼んでみて初めて、良い名だと思った。長いスカートの裾を捲ったエンジェルは、華奢な少女と身体を重ねることに、任務の責任感ではない何かを芽生えさせていた。

 他者に深い部分を身勝手に抉られる感覚から眼を瞑り、頭上のエンジェルにすら届かないような囁きを、唇に乗せた。

「しま…………」

 浮かぶ顔は、朧気だった。




 学校から出た途端、「志摩くん!」と声をかけられ、志摩は振り返った。

「おっ、杜山さんやないの。どうしたんや、そんなに急いで」

 普段塾でしか会うことのないしえみが、息も絶え絶えに、昇降口の前にいたのだ。急いで走ってきたのだろう、細い身体全身で呼吸を落ち着けている。

「これ……っこれを、渡したくて」

 一分一秒を急ぐように、小さな植木鉢を差し出された。袋に入れる余裕すらなかったのだろう、土をいじっていた手は汚れ、顔にも泥が飛んでいた。しかし本人はお構いなしの様子で、続ける。

「っこの、お花さんはね、燐と一緒に選んだんだよ」

 久しぶりに耳にする名前は、恋人だった少女のものだ。

 終身刑が宣告され、彼女が姿を消してから、既に二ヶ月以上もの日々が経過していた。その間に志摩は何もしていないし、何もできなかった。ただ、今まで通りに、今まで辿った道を何とか思い出して、歩んできただけだ。本当はたった一歩すら、進歩などしていないけれど。

「つぼみが、できたら……っ志摩くんに渡すんだって、言ってた!」

 かたかたと震える手の平にのせられた花には、小さな青いつぼみがある。眼にした途端に、そこに燐の姿が一瞬浮かんで、驚いて瞠目した。

 恐る恐ると受け取ると、手の中の温もりは優しかった。しえみの体温と、誰かの気配だった。鉢を擦ると、爪の中に土が入り込んで、爪切りを催促するみたいだった。
 目が合うとしえみは、へらり、と柔らかく笑った。

「貰ってくれてありがとう、志摩くん」
「……それはこっちの台詞や」

 燐と友達だったのが彼女で、良かったと、心の底から思う。頭を下げて去ろうとした志摩に、「あ、それとね」と声がかかった。

「そのお花、クロッカスさんって言ってね、花言葉は――」




 窓際の縁に花を置いて、ベッドに腰掛ける。スプリングが僅かに軋んだ。明日の朝にはきっと、朝露を光らせ輝いているのだろう。

「な、燐」

 花に向かってか、空に向かってか、話しかけた。

「あの日、ゆるしてって言ってた理由な、今更理解ったんや」

 馬鹿みたいだ。阿呆みたいだ。
 遠くから鳥の声がして、夕暮れの匂いが漂った。

「子供を産まされるかもって、あの時もう、知ってたんやな……?」

 魔神の仔に、子供はできちゃいけない。そう告げた瞳が、今も甦る。

 志摩は燐と恋人だったが、子供が出来る行為に及んだことはない。何回かそういった雰囲気になったことはあるが、激しい拒絶に遭い無理強いはしなかった。対策をしても、妊娠の確率はゼロではないからだろう。

 ――そんな燐は、今この時、あの男に組み敷かれ、犯されているのではないか?

 下腹部に熱が集まった。苦しくて、抑えられない。全身の熱が一カ所に集って、身体が爆発しそうだ。

「……っ!」

 ベッドに倒れ込み、壁に向かって身体をぶつけるが、治まる気配は一向に訪れない。燐が唇を奪われ、服を脱がされ、身体を弄られ、喘ぎ泣かされる光景を思い浮かべ鳥肌が立つ。その幻を打ち消すこともできず、痙攣を繰り返した。

 どんな。どんな思いで、燐が今、いるのか。どこにいるのか。どこまでいって、しまったのか。

 ――…… ま… …

「え?」

 懐かしい響きが意識の端を掠めて、志摩は震えすら忘れて顔を上げた。窓の外はもう、夜が覆っている。月明かりが、クロッカスの花を照らしていた。月光を受け止める小さなつぼみは、美しい青の粒子を撒いている。

 ――し……ま、 し ……

「……りん……?」

 聞こえる。その花から、聞こえてくる。
 起き上がり、頼りない足取りながら近づいていくと、より一層つぼみの輝きが増した。

 ―― こわ い……

 どくり、と鼓動が高鳴った。瞬きすら許されない。ただの一言すら、聞き逃せない。

 ――し … …たすけ、

 その単語が脳まで通達した瞬間に、手を、伸ばした。あの時、触れたのに、引き寄せられなかった、無力な手が。



 世界が反転した。
 温もりを、抱きしめていた。
 鼻腔をくすぐる香りは、変わらない。太陽の匂いがする、と思った。少し長くなった黒髪の感触は、以前より柔らかくて、艶に濡れている。
 ああ、泣いていたのだと、理解る。

「…………………………し、ま?」

 応えるかわりに、頭を撫でた。腕ごと抱きかかえられた燐は、渇いた笑みを一つ洩らす。

「なんだこれ……久々に幸せな夢、見てんのかな」

 やがて、脇の下から両腕が這い出て、おずおずと、志摩の背中に回された。安心したのだろう、吐息が首筋にあたってくすぐったい。涙はもう、止まったようだった。

「夢だから言うけど、俺、子供、できた」

 告白を経ても、頭を撫でるその手を、休めることはしない。悲痛な謝罪が飛んできてしまうと予想できたからだ。

「俺がしたことを、お前は、ゆるしてくれる?」

 あの時と同じ質問に、即答はしなかった。熟考の末に、はっきりと、頷く。
「……そっか」

 背中に爪が、痛いくらいに突き立てられた。近い内に切ってあげないと、と他愛なく思う。
 そんな日常を、必ず、取り戻す。

「待っててな」

 この幻想空間での一言は、最初であり、最後だ。儚い奇跡と理解して、少し離れて、向き合った。同時に笑って、同時に消える。

「すぐに迎えに、いくからな」



 眼を開けると、視界が映すのは自室の風景に戻っていた。
 その中心で、クロッカスの花が満開に咲き誇り、真っ青な燐光を飛ばしている。志摩は脈絡なく強く頷き、歩き出した。足取りに迷いはない。心に、戸惑いもない。
 頭には、二本の小さな角が生え揃っていた。







 


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