早々と、家に帰るつもりだった。
特に用事があるわけではないが、放課後の時間を部活動という名の青春に散らすでもなし、誰かとの約束もなし、こんな日はさっさと帰って寝るに限る。
いつも隣にいる幼なじみはバスケ部の助っ人を頼まれたとかで慌てて飛んでいったが、帰りを待つなど殊勝な心がけは普段から毛頭ない。あの気に食わない傍若無人なパズルゲームの誘いもないときたら、間違いなく直帰の合図、
だというのに。
「カイト−? どうしたの?」
「……別に」
どうして自分は美術室の椅子に座って、大人しく被写体なんぞになりきっているのだろうか。
アイアイ・グラフ
(揺さぶりくらくら、君の手のなかハートがおどる)
謎の事態に思わずといった体で溜息をつくと、先程から休まず動いていた鉛筆の音がピタリと止まる。ん? と気づいて顔を上げると、薄い笑みと目が合うから、ばつが悪くてそっぽを向いた。
「アナが思うにー、カイトはノノハが恋しくなっちゃった?」
「ちげェよ」
つか、それは有り得ない。断じて。いや絶対に。
強い否定の言葉が心の中を巡るが、どうにも空回りの感が否めず口には出さない。過剰反応は何かとあらぬことを勘繰られるし、第一小っ恥ずかしい。相手が相手なので、尚更。
カイトの心中とは真逆、ふうん、と脳天気な相槌を挟み、休んでいた手が再び動き出した。鉛筆の芯が僅かずつ削れて、陰影を白紙に刻んでいく。ごく一般的なはずのその音は、妙な懐かしさを呼び起こして、少しいとしい。最近はシャープペンシルの代替可能の固い音色を聞く機会が多いからか、それとも、操る人物を背後に思うからか。
紙面に目を落とす整った顔を、悟られぬようにと横目で見遣った。
アナ・グラム。
柔らかい色のウエーブがかった長い髪は、今は後頭部で結び、毛先が緩く垂れている。温かな光を宿す蜂蜜色の瞳は、集中力の表れか、普段より細められていた。
作業用にと着替えたつなぎはその背格好には大きめのサイズで、本来だらしない印象を残すはずなのに、アナが纏うと自然と絵になるから不思議だ。
まさに儚げな美少女――といった風情のアナ。しかし実は、女子ではない。
正真正銘の、男なのである。
「マジで男……なんだよな?」
無礼と自覚しつつ何度も質問してしまうのは、半ば確認作業に近い。一瞬、視線を感じて顔を上げると、「動かないで」と注意されてしまう。
「隠してたわけじゃないんだけどね」
答えに近い吐息を洩らして、微笑む。夕陽が照らすその端正な顔は、息を呑むほどに、美しい。
「アナが思うに、カイトはアナのことがちょっと気になってたんだなー?」
「な……!」
「だからそんなに、気にするの?」
動揺は、多少の痛い所を突かれてのものだったが、次の瞬間には、打って変わってこころはヒヤリと冷えていた。
特に表情を暗く落ち込ませてもいないし、哀しげに涙ぐんでいるわけでもない。それでもアナの表情は、僅かに軋んで、他人を頑なに寄せ付けないように感じられた。
その表情は、先程の余計な一言が生んでしまったものだと、頭の回転の速い少年はすぐに気づくが、それを素直に謝罪できる性格の構造はしていないと自他共に認めている。
だから、できるのは、見ないふりだ。
そう決めつけて、撥ね除けることを選択する。元よりただの他人だ、無駄な気遣いなど不要だろう。だからわざと、つまらなそうな声色を演出した。
「なぁ、そろそろ帰りたいんだけど」
「んー、もうちょっとだから」
待ってて、とまじめな口調で諭されれば、待たぬわけにもいかない。持続が難しい姿勢をとっているわけでもないので、また椅子に座り直す。その仕草がおかしかったのか、アナが小さく笑った。
それだけで、なんとなくこころが弾むから、ずるいと思う。
「ね、カイトは、言葉遊びってすき?」
「あー……別にきらいじゃない……けど」
「ん?」
カイトの退屈を紛らすためだろう、絵に集中しつつ切り出された話題を、これっきり終えるなんてとても許されない気がして慌てて付け足した。
「アナグラム。俺は好きだぜ」
「、」
小気味よい鉛筆がまた、ぴたりと。
止まって、それから、きょとん、と瞬きしているアナの瞳と見つめ合う。
その不可思議な反応に眉を顰め、首を傾げ、それからカイトは、思い当たる。
今の発言が与える、とんでもな誤解に。
「――ッ!」
真っ赤に茹で上がったバカな少年に、綺麗な少年は声を上げて笑う。
「いや、ちちち違、今のはそうじゃなく、いやそうじゃないわけじゃなくもないが違って」
「言葉遊びといえば、カイトにとってはアナになるんだね?」
「! う、るせっ」
気を遣われていると理解ったから先読みしたつもりだったというのに。こちら側からの気遣いがまさか墓穴を掘る形になるなどと、誰が想像できようか。
ふて腐れたカイトに、何故かひどく上機嫌になったアナは、「ねえねえ」と明るい声で問う。
「カイトは、パズルが得意なんだよね?」
「……まあな」
先日共にパズルゲームに赴いたばかりではないか、と突っ込む元気もなく、気力だけで応じる。そういえば、この少年と解いたパズルだけは、ひどく優しくて温かかったのだと思い出した。
変わらない笑顔で、アナは続ける。
「じゃあ、アナの出題するアナグラム、解いてみせてよ」
「望むところだ」
売られたパズルは即買い即解き、とばかりに開き直ると、わーい、と手を叩いて幼げに喜ぶ。これで称号持ちというから驚きだが、その実力を垣間見たカイトとしては、この瞬間もそれ相応の緊張が身を包むのを感じていた。
初めて会った時、バラバラに散らばったパズルのピースを脳内で簡単に再構成してみせた非凡な才。有名な絵画を使ったパズルで明らかにした、カイトの持たない知識を特化した記憶力。
最早被写体を務めていたことなどすっかり忘れ、姿勢を崩したカイトは、「じゃあ、問題です」と柔らかく切り出すその声に全神経を集中させる。「えっとね」とアナは小首を傾げた。
「トナカイもキスだよ。愛だもん」
「――、ト、トナカイ、も……」
可愛らしい笑顔とか、字面の要素とか、いろいろと気になって一瞬停止してしまったが、すぐに気を取り直して解読に乗り出す。
アナグラムとは、文字の順列を並び替え別の意味を形作る言葉遊びの一種だ。例えば、「ばさし」→「さしば」というような単純な入れ替えすらアナグラムとなるし、単語から数百種類のパターンを生み出すことも可能な問答無用のルールだから、時に非常に困難な暗号ともなる。
思考を途切れさせず、出題者であるアナをちらっと眺めると、思った通りに表情は明るい。まるで、出題文を口にした事実そのものが嬉しくてたまらない、とでもいうような。
(となかいもきすだよあいだもん)
あらゆる可能性を模索し、次々と選択肢を消していく。本人の口ぶりから気になっていた一人称「アナ」は多分正解。残るは、
「……俺の名前?」
「うんうん」
強く頷かれたので、これも正解。後は、
(きすよだも)
となれば、
「――解けた」
「さすがカイトだねー」
「単純だったからな」
「意味は別だけどね?」
悪戯っぽい笑みを差し向けられ、咄嗟に顔が赤くなる。失態を掘り返された気分になって、平静ではいられない。
力なく椅子にもたれかかったカイトを尻目に、アナは元気よく立ち上がる。
「じゃあ、正解したから、ごほうび!」
絵が描き終わったのか、髪をといて靡かせたアナを見上げ、肩を竦めた。
「今描き終わった俺の絵だろ? どーれ、見せてみ――」
ちゅ。
小さなリップ音は、口元で聞こえた。
ああ、睫毛長いな、と気づいて瞬きしたときにはもう、甘い香りも、柔らかな感触も遠ざかり、華奢な背中が閃く。
「カイトがモデルになってくれて、アナ、すっごく嬉しかったかも」
ふわり、と舞い上がった髪先が、掴めそうで手を伸ばすが、敢えなく虚空を空振り届かない。
「絵もプレゼント。自信作だからねー」
「……おう、大事にする」
意識のほとんどが彼方に吹っ飛んでいる中、元来の負けず嫌いだけを発揮してそれだけ返す。
じゃあね、と言うようにひらひら手を振る背中に、一つだけ。
余計な一言は打ち消せないかわり、積み上げるべきもう一言が、あったから。
口を開いた。
「…………」
「え?」
「何でも無い」
無声音の三文字は、やっぱり届かなかったから、見ないふりでやり過ごす。
鼻歌を歌いながら去って行く姿を見送って、枯れ木のようにへたり込む。
先日頬にされたときは、未だ少女とばかり思っていたから、心臓の鼓動の速さなど当然だ反射だと気にならなかったけれど。
今はもう、何度もの否定を頂戴した後の、口づけ、だというのに。
「大門カイト、アナも好きだよ、な」
口にしてみると、妙にこそばゆいその告白。だからこそアナも出題という形に託したのかと、その心中察してみようと気を入れるが、当面理解に至りそうもない。ダ・ヴィンチの謎を紐解くには、まだまだ経験が浅いようだ。
しかし、今日一日で実感したのだが、アナは意外と笑い上戸らしい。随分とたくさんの笑い声を耳にした覚えがある。それだけで充分な収穫だろうか、と納得しかけ、
「あれ?……けど」
そういえば、あの時。
ノノハの名を口に出した、あの時の、笑顔は。
背筋に寒いものを感じさせる、薄ら笑い。
尖った声色に、どうでも良さそうに装った態度。
……まさか、と疑うし、調子に乗りはしないけれど。
全く持って、アナ・グラムは心臓に悪いパズルだと思った。
初めてのファイブレSSです。
アナカイでもカイアナでもいいんですが、この2人がほんと可愛いです。もっとイチャコラしてほしい!