もう二度と、誰とも心など交わすものか。
「……ちゃ、ん」
もう二度と、大切なものを喪わない為に。
「ほむら、ちゃん…………」
永遠の迷路に、閉じ込められようと。……私は。
「お願いが、あるの…………」
あなたを (決めて、誓って、歩き出す)
「やったねーっ! ほむらちゃんっ!」
ポップコーンが弾けるような声が、すぐ耳元で笑った。
以前は大きな音がするだけで驚いて硬直してしまうほどだったのに、今の私はもう、この言葉を聞くために生きているといっても過言ではなかった。
鹿目まどかは、きらきらと輝く大きな瞳を更に丸くして顔を綻ばせ、力いっぱいに私を抱きしめている。
苦しいよ、と言いかけて、でも勿体ない気もして、私は黙ってその心地よい抱擁に身体を預ける。まどかはあったかくて、優しくて、こんな風に抱きしめられると、自分のこころさえもほんのり休まる。
青く透く湖で、澄んだ空を見上げて浮かんでいるような不思議な感覚だった。全身で、すきだよ、と気持ちが伝わってくる。まどかの鼓動が、私の心臓に教えてくれる。それが、妙に恥ずかしくて、嬉しくて、いとおしい。
「今日も爆弾、すごかったよ! 格好良かった!」
「そ、そんな、私なんか、全然……」
まっすぐで躊躇いのない言葉が、私の胸の中心部に次々と刺さってくる。
そんな彼女に憧れて、格好良くなりたくて、同じ場所に立っていたくて――だから今の魔法少女としての自身があるのだと、素直に伝えられたならば。
でも私の唇は、感謝も、本音も、何にも形にできはしないのだ。ただ、恐縮するように頭を下げて、真っ赤な顔を見られないように隠しながら、情けなく震える口元を覆う。ちっとも強くなんてなれていなかった。まどかと一緒に戦えて嬉しいはずなのに、こんなとき、いつも私は後ろめたい気分になって、自分が憎くてふさぎ込んでしまう。
未だに身動きの取れない私の隣で、やれやれと苦笑しているのは先輩の巴マミさんだ。グリーフシードが回収できなかったことを確認すると、「また明日」というように無声音で口を動かし、ヒラヒラと手を振って去っていく。
蝶のようにしなやかで可憐な彼女に、「さ、さようなら!」とどもりながらなんとか別れを告げる。遅れて気づいたらしいまどかが私から身体を離し、遠くの背中に手を振った。
「ありがとうございましたー! マミさん、また明日!」
無邪気な声に、振り返ったマミがひとつ、小さく微笑んだ。
彼女の背中が見えなくなるまで手を振ってから、
「私たちも帰ろっか、ほむらちゃん!」
その手がそのまま、私の腕を握った。
「〜っ!」
「あ! ごめん、嫌だった?」
他人の気持ちを敏感にくみ取るまどかは私の表情を一瞥すると、早口の謝罪と共に、慌てて手を解く。
「あ……」
「……えへへ。帰ろ、ほむらちゃん」
照れたように頭を下げるまどかに、私は頷くことしかできない。
嫌だったんじゃない、恥ずかしかっただけで、本当は嬉しかった――なんて言葉、言えるわけもなかった。
もちろんまどかは笑ったりしないだろう。またいつものようにきっと、照れくさそうに顔を赤くして、私を引っ張って歩いてくれるはず。
でも、言えなかった。
「うーん、どうしようかなぁ……」
「……なに、が?」
先を歩くまどかに、音を立てないように注意深く気を付けながらついていく。何やら考え事をしている様子の彼女に、耳障りと思われたくなかったのだ。
その呟きは、どうやら独り言ではないらしい。でも勘違いしていたらどうしよう、迷惑に、不躾に思われるだろうか、と杞憂とも言えるくらい気を回しながら、私はおずおずと小さな声で問う。
まどかはしきりに、自分の横髪を触っていた。汚れでもついているのだろうか、と隣まで走って駆け寄ると、不意打ち気味に微笑まれ、言葉を続ける余裕もなくなってしまう。
「あのね、髪伸ばしてみようかなって思ってて」
「髪、を? どうして」
「ほむらちゃんの長くてまっすぐな黒髪、綺麗で憧れてるんだあ。私もそんな風になりたいなぁって」
「――」
しばらくは、意味が理解できなかった。
その無言の沈黙を訝しんだのだろう、まどかが私に目を向けて、どうかしたのか、というように首を傾げた。
知られないように、眼鏡が汚れたふりをして顔を俯ける。長い前髪が、素顔を晒す前に何もかもを隠す。
……初めての、ことだった。
憧れてる、だなんて。言ってもらったのは。
心臓の病気で長い間、ベッドに縛り付けられて生活していた。
窓の外に広がる青い世界を目にするたび、虚ろな目で、呪いを差し向けこころで歌い続けていた。
私はなんて不幸なのだろう。
この世のどこかには、輝かしい舞台に立って、脚光を浴び栄華を手にする人間もいるというのに。
こんなにも無様に、死んだように生き続ける、わたし。
何の意味も、意図もなく、形ない生だけを授けられた屍のわたし。
けれど、
その時から切る機会もなく無闇に伸ばした暗いだけのつまらない髪を、褒めてくれた。
私をそこから手を伸ばして引っ張ってくれたまどかが、今も昔も、認めてくれている。
他人に嗤われるだけの、人生に。祝福をくれた。
「やっぱり私みたいのが、髪伸ばしても似合わないかなあ……」
「そ、そんなことない!」
「ふえ?」
はしたないくらい大声を上げてしまって、慌てふためきながら両手で口元を覆う。
こちらをじっと注視している大きな丸い瞳から逃れられず、一本ずつ、指を口元からはがす。緊張して中々外れなくて、愚かさに涙が出そうになった。
それでもまどかに、急かす様子などひとつもなかった。どころか、応援するみたいに小さな拳を握りしめ、力強い意思を瞳に宿している。
……そんな、あなただから。
「鹿目さんは、かっ、かわいいから……どんな髪型でも、似合うとおもいます……」
どうしても、伝えたくて。
だけど拙くて、語尾さえ震えて。
いつになったらこんな弱さを乗り越えられるのか、あなたに追いつくことができるのか、一寸先は暗闇に沈んでいて。
それでも、ねえ、
「ありがとう!」
あなたが笑ってくれるから、私は。
何があったって平気だって、思えるの。
「ほむらちゃんが、一度三つ編みといたところも見てみたいな〜」
「えっ!? そ、そんな、そんなの大したものじゃないから……!」
「えー、可愛いと思うんだけどな。……あ、そうだ!」
前触れなく、まどかの両手が伸びた。
また抱きしめられるのかと思い、ぎゅっと目を瞑って身を竦めると、予想していた感触は訪れなかった。
そのかわり、鼻筋に乗っかっていたすこしの重みがなくなっている。あれ、と目を開けると、まどかが赤いフレームの眼鏡を手にしてにこにこ笑っていた。
無論、それが誰のものかだなんて、一瞬で理解できる。できたがしかし、素顔のまま無防備に彼女に目を向けてしまっていたことにも気づいて、ぐるりと顔を背ける。
「な、なんでこっち向いてくれないの! ほむらちゃん!?」
「早く、早く返してください鹿目さんッ! 私はそれがないと……!」
「綺麗な目なのにフレーム越しなんて勿体ないよう!」
「!」
また、だ。
彼女のペースに巻き込まれて、かき乱される。
「ととととにかくっ、返してください!」
ダッシュで逃げていくまどかを追いかけながら、私は胸の内、何度も本音を反芻していた。
私は、あなたの明るい色の髪がすき。
私は、あなたの優しく微笑む瞳がすき。
でも、言えなかった。
本当に伝えるべきことばかり、どうしても言えなかった。
私は、まどかに。
結局、何一つ、返すことなどできなかったのだ。
「……ちゃ、ん」
もう一度、誰かと心を通じ合わせたい。
「ほむら、ちゃん…………」
もう二度と、大切なものを失わない為に。
永遠の迷路に、閉じ込めようと。……私は。
「お願いが、あるの…………」
構わないとでもいうように、その言葉を、口にしてしまった。
私の願いを、一言一句逃さないとでもいうように、目を見開いて、唇を噛みしめて、耳を澄ませて、意識を研ぎ澄まして、ほむらちゃんは懸命に私ばかりをじっと見詰め続けていた。
これが最後。
この世界の私との邂逅の、最後であることを。誰よりも深く理解しているからこそ、それはあまりに誠実で、痛々しいまでに決死の覚悟を伴った、あなたの眼差しだった。
ほむらちゃん。
口の動きとは異なる、こころの中に溶けていく、霞んでいく思いを、ひとつひとつ編んでいく。
彼女には届かない。私がそう望んだから。私の言葉を真実と定めている彼女は、私が唇に乗せたものだけがすべてと思っているのだ。
そうやって、真っ直ぐに思ってくれたことが、嬉しくてたまらなかったけれど。
でも、あなたが思っているより、私は本当はずっと卑怯なのだと、言葉なく訴えることをどうか許して。
「ごめんね」
「あなただけに 背負わせようとしてる」
「もう私は 魔女だ よ」
「あなたに未来永劫の、呪いを 残すの だか ら」
涙が止め処なく、溢れて伝う。
もうほとんど、視界は霞み切って世界を見渡すことはできなくなっていた。
その中心に、彼女だけが、朧に浮かんでいる。
壊れた世界の真ん中で、黒髪の少女だけが、私のことを憶えてくれている。
「憧れって ありがとう」
「初 め てだった 、嬉 しかっ た」
「な のに」
「ごめん ね」
「……ごめんね、私の大切な、」
魔法少女に、なったことを。
なってしまったことを。
奇跡を、魔法を、信じたことを。
信じてしまったことを。
誰ものように、悔いることもできたろう。
誰かのように、呪うこともできたろう。
誰かのように、逃げることもできたろう。
それでも私は、後悔なんてするわけない。
だって、逢えたのは。
「クラスのみんなには、ないしょだよ?」
あなたが奇跡を、魔法を、信じてくれたからだ。
三つ編みのゴムを、解く。
風に舞うそれを、追うことも見送ることもない。
赤眼鏡を、外す。
地に伏せるそれを、探すことも見つめることもない。
歯車を、回す。
時を巻くそれだけを、携え握りしめ、
「……もう、誰にも頼らない」
だから私は、誓う。
あなたがくれた奇跡を、魔法を、呪いを、使って。
「何度でも繰り返す」
だから私は、戻る。
あなたが信じた奇跡を、魔法を、打ち破るために。
「戦わせない、あなたを」
だから私は、祈る。
あなたが魔法少女に、ならない未来にたどり着くことを。
「たとえ私が、」
あなたに出逢えなかったとしても。
あなたを、守る。
もう一度あなたに、逢うために。