まどかといると。



 それだけで、私は幸せだった。




 傍にいると。
 その温かさが胸に沁みる。

 人から愛されるために、生まれたような少女。
 人から守られるために、生まれたような少女。

 それと同時に。
 どうして、と、考えてしまう。


「鹿目さんは、どうして笑っていられるの?」


 だからこそ。
 不躾と取れるような質問を、私はついつい零してしまった。

 魔女狩りに赴く時間までの、合間。まどかは一度家に帰ってからマミさんと合流するから、いつも放課後は一緒に帰っていた。
 ただの一般人である私は、そんな彼女たちを追いかけて、その生還を祈って見守る。
 そんなことしかできない。
 そんなことしか、しないから。
 こんなにも他人行儀でいられるけれど。一緒に帰る時間が楽しみで仕方がないだなんて、お気楽に浮かれているけれど。


 毎日毎日、怖ろしい魔女と人知れぬ場所で戦って。
 誰にも称賛されることなく、名誉を受けることもなく、ただ世界のためだけにその身を捧げて。
 いつか終わりが訪れるその時もきっと、誰も看取ってくれはしない。



 魔法少女は、寂しい。
 あまりにも、孤独で、寂しい。


 遠い昔憧れた、テレビの画面の中で光に照らされた少女たちと、同じ名を冠するとは思えないほどに。


  
「……うーん」

 私の疑問にしかし、まどかは首を傾げて応じた。
 笑うでも怒るでもない、既に決定していることを、他人になんと説明すればいいのかわからない、といった風の顔だった。

「あのね、ほむらちゃん。バカにしないで聞いてね」

 うん、と頷く。そんなこと、あなたに対してするわけがない。
 ふわふわと甘い色の髪を揺らして、まどかは唇を動かした。

「私、ずっとずっと、夢を見てたの」
「夢……を?」
「そう。物心ついたときから。ううん、もっと前からかもしれないんだけど、ずっと夢見てた」

 語るまどかの横顔は、夕日のせいだけではないだろう、柔らかな赤を流していた。
 その表情に、息を呑む。

 あまりにも、大人びていた。
 達観しきっているように、笑んでいた。

 遠すぎて、怖くなって、
 手を伸ばしかけたけど、すぐに引っ込める。

 まどかの言葉は続いていた。

「誰かの役に立つ人間になりたいって。誰かのために何かできる人間になりたいって。
でも、そんなことできそうもなくて、だったらせめて周りの人を守れる強さが欲しいなって思ったの。
私が、私にしかできないことで、大切な人を守りたいって」
「…………」

 それは。
 幼すぎる、理想論で。

 一介の高校生にそんな夢が叶えられるわけもなく。
 終わるはずであったのに。

 まどかの夢は、もう、理想じゃない。
 否、その夢は今このときだって“叶え続けられている”のだ。

 他ならぬまどかの、人生と引き換えに。

「この力のおかげで、ほむらちゃんを守ることもできた」

 焦燥に陥っていた私は、数秒が経ってからようやく、まどかの視線に気づいた。
 顔を上げると、穏やかな水面のような微笑が迎える。

「だから、良かったって思ってる。後悔なんか、してないよ」



 それがまどかの答えだった。
 私は結局、一言も返すことができなかった。

 今になると、どうしても考えずにいられない。
 あの時、何と言えば良かったのだろう。
 あの、思い出すにも憚れる優しくて苦しい最初の世界で、私はまどかに何を言えたのだろう。
 命を賭して戦う彼女に。
 本当の気持ちを、素直に言葉にしたとしたら、


「毎日、ただ平凡に、生きていられたら幸せなのに」


 ――許されるわけがない。
 命を救われた私が、どの面下げて彼女の意義を奪うというんだ。
 一番にそれを知っている彼女に、どんな暴言を吐けるというんだ。
 でも、
 それでも、











 あなたを私は、救いたかった。




だれよりも。 (大切な、唯一の、ともだち)





「……う……」


 遠い夢を、見ていたようだった。

 眼を開けると、ぐらり、と意識が傾き、鈍痛に顔を顰める。
 頭から出血しているらしい。視界の端を赤が霞めた。血の気が引いて、鏡がなくても真っ青になっているのが分かった。

「う……あ……?」

 ――ビョオオオオオオオオ

 凄まじい烈風が、自然災害に収まらない怒涛の質量が押し迫っている。
 鼓膜さえ破壊されそうなワルプルギスの夜の宴が、鳴りやまずに世界を蹂躙していた。

 淀んだ視界の先の光景が、言葉もなく教えていた。
 私はまた、倒せなかったのだ。
 何度も繰り返したのに、また、失敗したのだ、と。

 魔女の哄笑が絶望に誘う。
 結局何もできなかったのだと、奈落に突き落とす。


「……わたし」


 結局何のために、ここまで来たのだろう。

 何度も時を巻き戻した所為で、私は時間軸の基盤そのものを滅茶苦茶に掻き乱した。
 その因果がこの世界のまどかに結びつき、魔法少女としての絶大な素質を持つ要因となったのだと、キュゥべえに突き付けられた言葉は、間違いなく、真実なのだろう。
 私がいたから。
 まどかは数多の運命に翻弄され、こころを幾度も殺され、ぼろぼろにされてしまった。
 いったい何度その泣き顔を見ただろう。

 守るのだと誓いながら。
 それがすべて、私の所為で派生した苦しみであったなんて。

「わたしなんかが、まどかを、傷つけていたなら」

 哄笑が、哄笑が、哄笑が、嘲っている。
 私の人生の無意味さ。
 私の人生の愚かしさ。
 何のために、産み落とされたというのだ、こんな世界に。



 大切な人ひとり守れないこの世界に、意味なんか、ない。



「消えてしまえ」

 急速に、淀んだ感情に支配される。
 真っ暗になって、真っ白になって、真っ暗になって墜する。
 勝てない、克てない、敵わない、適わない。
 私の願いはもう二度と、叶わない。

「……わたしなんか、早く、」


 ソウルジェムが、軋んだ音を立てて――









 ――壊れなかった。


「え……?」


 ああ。
 この光景を、よく、憶えている。
 網膜に焼付いた、記憶が、囁く。

 私は見ているのだ。
 あるいは戦いながら、あるいはさやかに羽交い絞めにされながら、
 あるいはこうやって、倒れ伏せながら。




 この。
 この小さな背中を、見ている。




「ごめんね、ほむらちゃん」

 その先を。
 言わないでほしい。どうか。

 いつもいつも。
 まどか、あなたはそうやって、
 どんなに苦しくたって、
 どんなにいたくたって、
 最後は、笑うんだ。



「私、魔法少女になる」



 泣き喚いた。
 見苦しくてもなりふり構ってはいられなかった。

 やめて。
 お願いだから。

 今までの私を、あなたまでもが否定しないで。
 笑顔で許したりしないで。
 あなたを見捨てて逝こうとした私を罰して。
 そんな価値さえなく、あなたにまで打ち消されてしまったら。
 本当に何のために、ここまで来たというのか。

 まどかは何回も、ごめんね、と謝っているようだった。
 その声はうまく、聞こえない。いつかと同じように、遠くて、それが怖い。
 このまま離れていってしまうのかと、思う。
 また、彼女は死んでしまう。

「いかないで」

 血が迸るような、金切り声。

「いかないで……ッ! まどか!!」

 それを遮るようにして、抱きしめられた。



 息が、止まった。

 先日無理やり抱き寄せたばかりのまどかの身体は、あの時よりずっと、柔らかかった。
 張りつめていた緊張の糸が解れた故の、弛緩だったのだろうか。
 でも、それがなぜなのか分からない。ただ茫然とその言葉を聞きながら、目の前の魔女の暴走を走馬灯のように焼き付けながら、私は今更のように、まどかの言葉の意味を理解し始めていた。


 ……そうか。
 私を置いて、行ってしまうのか。


 頬を大粒の涙が、濡らす。




「だから、良かったって思ってる。後悔なんか、してないよ」

 そう告げると同時に、ほむらちゃんは深刻な表情で黙り込んでしまった。
 申し訳なく思う反面、言いきれたことに、私は安心を覚えてもいた。

 嘘じゃない。
 だけど、真実とも、断言できない。


 本当はずっと怖かった。


 怖くてたまらなくて、でも、誰にも言えずにいた。
 いつ世界から弾かれるかも分からない毎日は、勿論やりがいもあったけれど、それ以上の恐怖だけを運び続けていた。


 そんな毎日に、あなたが現れた。
 名前負けしてる、と俯いたあなたの姿が、いつかの自分と重なって見えた。


「私もずっと、怖かったの」

 でもね。
 きっと、変われるから。

 あなたなら、あなたの力で、壁を乗り越えられるから。

 だからだいじょうぶだよ。

「魔法少女になったの、本当はすごく、怖かったの」

 ねえ、いつか。
 満面の笑顔を、私に見せてね。

「あなたに会うまで、すごくすごく、怖かったの」

 そうしたら、そう、私が。
 私が守ったから、結ばれた未来がここにあるって思えるよ。
 ひとりじゃないんだって、安心して、泣けるよ。



「わたしの、最高の友達に会うまでは」



 だからその日まで。
 どうかこの世界に絶望しないで。








 笑っていてね、ほむらちゃん。



『……うん。そうなの』

 涙混じりの私の言葉に、そうして頷く気配があった。

『私も、だよ』
「……えへへ。ほんとう?」

 同じ声が、する。
 頭上からまったく同じ声が、降ってくる。

『私も、ほむらちゃんに会えたから、決めたの』

 鹿目まどか。
 もう一人の私が、見下ろしていた。

 ワルプルギスの夜の襲来によって、荒廃した景色の中。
 桃色の衣装を身に纏ったその姿は光り輝いて、鏡の目の前に立っていると同じはずなのに、まるで自分ではないように感じる。

 そんな彼女が、ここに何をしに来たのだろう。
 不思議に思って見上げていると、くすり、と小さな笑みが鳴った。

『あなたが願ってから、ずっと、ずっと、ほむらちゃんは一人で戦い続けてた』
「…………」

 視線を動かすと、そこにはもう、瓦礫の山以外には何もない。
 つい数分前に、私はほむらちゃんに頼んだのだ。
 違う世界の私にところに行って、キュゥべえに騙される前に助けてほしい、と。

「約束、叶えてくれたの……? ほむらちゃん、は……」
『少し違う形になっちゃったかもしれない。私が私の願いを、叶えたから』
「あなたの、願い……?」
『だから私は、ここにいるんだよ』

 慈愛に満ちた表情で笑むその少女は、まさに、私が遠い昔に憧れた、強くて優しい魔法少女の姿そのものだった。
 違う世界で、違う人生を歩んだ私の、願い。それは私とは異なるものなのだろう、けれど聞く気にはならなかった。
 そんなことより、ずっと大事なことがあったから。

「ほむらちゃん……に、伝えてほしいことが、あるの」
『伝えることができるか保証はできないけど、それで良かったら聞くよ』
「わたし……あのね……」

 歯噛みすると、同時に視界も滲んだ。
 震えて形にならない言葉を、なんとか吐く。



「……ごめんね…………、ありがとう……って、……どうか、伝えて……」



 時を巻き戻して、助けてほしい。
 その願いが、ほむらちゃんの人生を、狂わせた。
 弱虫だって俯いていた優しい女の子の運命を。
 私が滅茶苦茶にして、きっと何度も何度も、泣かせた。
 勝手に利用して、自分はこうやって楽をして、すべてを背負わせた。

「私、違ったんだって、気づいたの」
『うん』
「あのとき、怖くないのか、何で笑えるのかってほむらちゃんに訊かれたとき、」
『うん』


「素直に怖いって……言えばよかった……っ」


 怖い。
 怖かった。
 ずっとずっと、怖くて。

 でもその恐怖があなたの命を救ったなら。
 やっぱり後悔なんて、できなくて。


『私たち、同じだね』
「え……?」
『私もね、ほむらちゃんに強がって、出てきちゃったの』

 ぺろり、と舌を出して笑ってから、私は私を、見つめた。

『夢と希望を叶えてみせるから。今までのほむらちゃんを無駄になんかしないから。
強がって、ぜんぶ捨てて、ここまで来ちゃったの』

 思わず沈黙を返すと、まどかの頬から何かがぽろり、と伝った。
 その正体に気づいて、次は私が笑ってしまう。

「ほんとに、似てるね……あはは」
『うん、ほんとだよ……えへへ』

 笑いが収まってから、そういえば、と視線を巡らすと、手の平の上にソウルジェムが転がっていた。
 黒く淀んだ霧を暴発寸前まで立ち上らせる悪夢の光景に、苦笑交じりのため息をつく。

「私もここで、終わりかあ」
『ううん』

 てっきり同意が返ってくるかと思っていたのに、予想に反し、頭上の私は首を振る。

『ほむらちゃんが繋いでくれた奇跡は、』

 優しく額を撫でられ、安心感にそっと目を閉じた。
 恐怖ではない温かな感情に抱きしめられている。
 ようやく本当の気持ちと、向き合えた気がした。

『きっとあなたの言葉を、ほむらちゃんに届けてくれるから。だから今は』




 おやすみなさい、“わたしたち”。






 身体中が激痛に震えていた。
 真っ直ぐ立っているのが難しいほどの傷を全身に負って、まさに満身創痍としかいえない状況にあった。

「ふ……っぅ……ッ」

 荒々しい息の切れ端から、血の塊を吐き出す。
 襲い掛かってくる魔獣の触手を必死に払いのけると、腕から鮮血が迸る。

「ッ!」

 顔を歪ませながら、なんとか次の手を避ける。
 足がもつれ地面に転倒したその先に刃が走り、慌てて転がり回避する。

 しかし猛攻は止まらない。
 一度戦線を離脱することも考えるが、支援もないこの孤立した戦場で敵に背中を向けることは即ち死を意味している。
 弓矢を構えかけるが、勿論邪魔が入ってまともに狙いも定められない。
 どころか視界が明瞭としていないのだ、空と大地が反転しているような錯覚にも囚われ、武器を扱えるような集中はなかった。


「…………、」


 たぶんここが、死地だ。

 どうしようもない現実を、どうやら受け入れなければならないらしい。


「……わたし、」

 ほとんど諦めに近い感情に支配されながら立ち上がりかけると、髪先から何かがぶら下がっている。
 のろのろとした動作で掴み取ると、土汚れが激しいそれは、あの日あの場所で託された、真っ赤なリボンだった。

 あの子が、守りたかった世界。
 その存在と引き換えに、再び創った世界。

「ちゃんと、できたかな……」

 今や私の記憶の中だけにその輪郭を沈ませた、桃色の少女。
 大きすぎる願いと共に姿を消した、概念に浮く優しい少女。

「守れて、いたかな…………」

 誰にも頼らずに。
 たった一度の人生を、駆け抜けてきたけれど。

「……あなたの、ゆめを……」

 死ぬのは怖くなかった。
 むしろ怖いのは、その先だ。

「……、ねえ…………」

 もう一度。
 もう一度で、いいから。

 その声を。
 その体温を。
 その瞳を。
 その温度を。

 その優しさを。
 その痛みを。
 その安らぎを。


 その、微笑みを。



「まどか」









 身体を、柔らかな光が包んだ。
 長い間触れ合っていなかった、それは人の、温かさだった。

 信じている。
 今なら、私は、信じられる。

「奇跡、起こったね……」

 頬を、幾筋もの涙が伝った。
 こころの奥の氷が、少しずつ溶けていく。

「また、逢えたね……」

 あなたがいたから、ここまで来られた。



 光が、そっと、笑う。



















『おつかれさま』








 
 

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