何気ない日常というものを、愛して止まなかった。
朝、欠伸をかみ殺して目を覚ます。
洗面所で顔を洗って、食事をして、歯を磨く。
大慌てで飛び出して、友達と待ち合わせして、通学路を歩き。
何気ない会話に笑って、つまらない授業は居眠り。
放課後は、ショッピングしたり、家に帰って昼寝してしまう。
優しくて、温かくて、ありきたりな、まいにち。
を、
わたしは。
いとも簡単に、失って。
それから、ずっと。
何気ない日常というものを、欲して堪らなかった。
またあした (ばいばい、またねの、もう一歩)
彼女が職員室に呼び出されてから、十分ほど経っただろうか。
優等生なのに珍しいな、なんて思考しながら、窓の外を眺める時間を続ける。
クレヨンで描いたようなオレンジが視界いっぱいに広がって、遠くに鳥の影が見えた。
ひらひら、と手を振って、もちろん届くはずもなく、風だけが暇をもてあまして、私の髪で遊んでいる。
静かな夕日だった。
改めて空を見上げる機会は、この歳になるとあまりないもので、なんだか新鮮な気分を味わう。
流れる空気は、都心といえど心地よくて、思わず笑顔が零れた。
業務的に振り返ると、時計の分針が、また少しだけ進んでいる。
うと、と閉じかけた瞼を、慌ててぬぐう。
昨日は久しぶりに夜更かししてしまって、睡眠不足の感は否めない。失敗したなあ、と今更の後悔は役に立たないけれど。
教室に近づいてくる足音もないし、少しくらいなら、寝ていてもだいじょうぶだろうか。
自分の机だというのに、何故か泥棒のようにおそるおそると近づいて、椅子を引く。
がたっ、と大きな音が鳴って、びっくりして手を離す。
一人の教室って、やっぱりちょっと、怖い。
独りの心細さを、深く、実感する。
早く帰ってこないかな、と不安に眉を寄せながら、席につく。
こうしてみると、こんなにも広い部屋なのだと感心。雑多なイメージが目立つ場所なのに、やっぱり人数の要素は一番大きい。
座った途端に、強烈な睡魔が襲ってくる。どうやら授業で爆睡する癖を発揮しているらしい。なんだか不甲斐ない。
瞬きを二回繰り返すと、既に視界は霞がかっていた。
これはもう逆らうのが罪、とばかりに両手の上に顔を乗せると、眠りの世界が一気にやってくる。
ぐいぐいと引っ張られて、私の意識は急速に遠い場所へと去って行く。
しばらくの間、おやすみなさい。
「まどか−、どうかしたの?」
瞬きを二回繰り返すと、さやかちゃんがそこにいた。
短い青髪をふわりと靡かせて、不思議そうに問う彼女に、慌てて頭を振る。
「あ、ううん、なんでもないよ。ごめんね、ぼーっとしてて」
「もー、いっつもそうなんだからまどかは」
やれやれ、と呆れたように肩をすくめるさやかちゃんに、照れ笑いを返す。
しっかり者のさやかちゃんは、ぼんやりしがちな私を引っ張ってくれる優しいひとだ。
一人だったらもっといろいろ、大変なことが盛りだくさんに違いないだろうなあ、とついつい内心感謝を唱える。
それには気づいていない様子でさやかちゃんは、よーし、と何事かを意気込んでいた。
「? どうかしたの?」
何気ない質問のつもりが、予想以上に狼狽えた反応を得て、尚更きょとんとしてしまう。
大事な行事でもあっただろうか。特に思い当たらないのだが、真っ赤な顔をして唸っている様子を見ると、鈍感と揶揄されることの多い私でも合点がいった。
「今日こそは……その……、」
「京介くんを誘ってみる、だろー?」
意地悪そうに尖った女の子の声がした。
私が振り向くより先に、気配でも感じたかのように俊敏に動いたさやかちゃんは、「杏子!」と大きな声を張り上げている。
「あ、あ、アンタ、まどかの前で適当なこと言わないでよ!」
「ハア? 分かりやすすぎて隠す必要もねえだろバーカ」
へっへーん、とこれ見よがしに笑う杏子ちゃんは、粗暴な面もあるけど本当は可愛いひとで、さやかちゃんと大の仲良しさんでもある。
指摘に悔しげに唸ったさやかちゃんは、「アンタ今日こそは許さないからっ!」と叫びながら、逃げる杏子ちゃんを猛ダッシュで追跡する。
おなじみの光景に、くすり、と笑おうとして、何故か私はうまく笑えなかった。
……あれ?
なんでだろ、と首を傾げる私の視線の先、さやかちゃんが振り返った。
逆光で表情も読み取れない彼女が、言う。
「ばいばい、まどか!」
う 、ん。
ぎこちなく、くるしく、頷く。
ロボットみたいに、なんでこんなに、動きが、
視線の先の景色ばかり、流れていくのに、
止まってなんか、くれないのに。
縋り付くみたいに、手を振る。
「それじゃ、」
またね。
「鹿目さん、どうかしたの?」
瞬きを二回繰り返すと、マミさんがそこにいた。
緩いウエーブがかった金髪をふわりと靡かせて、不思議そうに問う彼女に、慌てて頭を振る。
「あ、ううん、なんでもないです。ごめんなさい、ぼーっとしてて」
「ふふ、いつもそうなんだから鹿目さんは」
おかしそうに微笑むマミさんに、照れ笑いを返す。
年上のマミさんは落ち着きがあって、私にとっても頼れるあこがれの先輩だ。
一人だったらもっといろいろ、悩みばかりで埋め尽くされるだろうなあ、とついつい内心感謝を唱える。
それには気づいていない様子でマミさんは、あ、と小さく呟いた。
「? どうかしましたか?」
何気ない質問の答えは、私の背後から返ってきた。
『仕事だよ、マミ』
無機質で無感情な、女の子のようで男の子のもののようでもある声がした。
私が振り向くより先に、マミさんは「久しぶりね、キュゥべぇ」と既に挨拶を終えている。
「で、今日はどこまで連れて行ってくれるの?」
『君が戦える限りさ。行けるかい? マミ』
問うキュゥべぇには、マミさんの答えを待つ気など元来見当たらない。力強く一歩を踏み込んだマミさんにもやはり、迷いはないようだった。
二人はこれから、魔女狩りにいくのだ。魔法少女の役目を果たすために。
おなじみの光景に、思わず眉をひそめかけて、私はうまく、表情を動かせなかった。
……あれ?
なんでだろ、と首を傾げる私の視線の先、マミさんが振り返った。
逆光で表情も読み取れない彼女が、言う。
「さよなら、鹿目さん」
え、
「私も行きますよ」
口を突いて出た言葉は、当たり前で自然で、けれど二人は、そんな風には受け止めていないようだった。
『何を言っているんだい? 鹿目まどか』
「そうよ鹿目さん。遊びじゃないんだから」
え?
ぎこちない。くるしい。
だって、私は、
魔法少女なのに、
嘘なんかじゃ、ないのに。
縋り付くみたいに、手を伸ばす。
「それじゃ、」
またね。
「ッ…………!!」
「きゃっ」
金切り声を上げて飛び上がると、すぐ傍でかわいらしい悲鳴と共に、どすん、と大きな音がした。
慌てて向くと、そこには尻餅をついたらしいほむらちゃんがうずくまって、「いたたた……」と小さく嘆いている。
「ほ、ほむらちゃん?」
「ごめ、ごめんなさい鹿目さん、起こそうと思っただけなの、わたし、驚かせるつもりじゃなくて、」
私以上にテンパっている様子のほむらちゃんは、無意味に眼鏡を何度も弄って、めまぐるしく顔色を変えている。
今すぐにでも泣き出してしまいそうだ。あまりにも申し訳なくて、私は大きく頭を下げた。
「こっちこそごめんね、待ってる間寝ちゃったせいで」
「う、ううん。そんな、鹿目さんが謝ることなんて」
こういうとき、無理に会話を続けると、余計に自分を追い詰めてしまうという特徴を持つのがほむらちゃんだ。それを十分理解している私は、彼女の手を握ると、突然すぎるかもしれないと危惧しつつも、「じゃあ、帰ろっか!」と声を張り上げた。
大声に慣れないほむらちゃんは、長い三つ編みを垂らしてぱちくりとしていたが、私と目が合うと、急に真っ赤になってうん、と小さく頷いた。
外に出ると、柔らかな風が頬を掠めた。
「今日は一日、晴れてよかったね」
「……あ……、はい」
素っ気ない返事だが、これがほむらちゃんの精一杯だってことは、よく理解っている。
むしろ応えてもらえたのが嬉しくて、尚更笑顔になると、「あ、あの」とか細い声が聞こえた。
「うん?」
「…………て、てが」
俯いた視線の先を追うと、そこにはしかと繋がった、私たちの右手と左手が浮かんでいた。
そうだ。ほむらちゃんは大の恥ずかしがり屋でもある。いやな気分をさせてしまった。慌てて手を離して謝ろうとすると、
「い、嫌じゃないから!」
さっきの私の声よりもずっと大きく強く、振り絞ったその言葉は、驚くほど真摯で、懸命なものだった。
ぎゅう、と握られ、でも痛みはない。どころか、その手は震えていた。思わず、固唾を呑んで見守る。
「嬉しい、から。だから……離さないで」
甘酸っぱい響きは、相反して茶化す要素は持ち合わせていない。
唇を血が滲むほど噛みしめたほむらちゃんは、この手を離したら死んでしまうとでもいうように、私を必死に見つめていた。
何が彼女をそこまで駆り立てるのか。
私は分からなかった。
分からなかったけれど、でも、
この感情を名付けるならば、きっと“嬉しい”と、呼べるのだろう。
「……うん」
小さくはにかんで、歩き出す。
他愛ないことを語るだけでも、楽しい道のり。
短くて、短くて、一瞬で終わってしまう、通学路。
だいすきで、ちょっとだけ、きらい。
「そういえばね、私、髪伸ばしてみようかなって思うんだ」
「髪……? どうして?」
「ほむらちゃんって、すっごく長くて綺麗な黒髪だからさ。憧れてて、私もそんな風になりたいなって」
ふえ、と息を吐き出したほむらちゃんは、夕日よりずっと赤い顔をしてから、大慌てでそっぽを向いてしまう。
その反応が面白くて首を傾げると、困ったように指先がかすかに動いて、それが少しだけ、くすぐったい。
「うーん……似合わないかな?」
「そんなことない!」
「!」
二回目の大声にも、やはり驚いてしまう。けれど。
ほむらちゃんの声は、こころに浸透する、優しい音色を奏でるから、私はとてもすき。
それは音量が違っても、何ら変わらない事実のようだった。
「か、鹿目さんはかわいいから、どんな髪型でも、ぜったい、素敵……です」
こんなにも。
こころに声が、伝わってくるのは、
「ありがとう!」
きっとほむらちゃん、だからだよ。
「……ほむらちゃん?」
先に進もうとした足が引っ張られて、止まる。
繋いだままの片方の手が、後ろにいる。
どうしたの、と聞こうとすると、
ほむらちゃんの両目を、透明な雫が伝っていて、びっくりして唇の動きが停止する。
「……ごめんね」
「え……?」
「ここで、お別れなの」
何を、言っているのか。
どうして泣いて、いるのか。
訳が分からず、狼狽すると、顔を上げたほむらちゃんは、笑っていた。
泣いているのが不自然なくらい、それは明るい笑顔だった。
「最後までずっと、一緒に歩きたかったけど……だめだった」
「ほむら、ちゃん?」
「たくさんの夢を、視たのね? まどか」
鼓動がどくり、と跳ねる。
振り返らずに去って行ったさやかちゃんが、マミさんが、杏子ちゃんの姿が、脳裏に甦った。
そこにほむらちゃんが、重なる。
蜃気楼みたいに揺らめいて、はかなく消えていく。
「……やだよ」
「まどか」
「だって、手、離さないでって、」
今や私の瞳からも、大粒の涙があふれて止まらなかった。
ほむらちゃんの笑顔が崩れて、噛みしめた唇から血と、うめき声が漏れた。
「離さないでって、ほむらちゃん、言ったのに」
互いが互いの、力を強める。
繋がった手が、泣き叫ぶように、軋む。
崖から落ちるときの、それは必死の、救い合いにも似ていた。
「ねえ、まどか」
「……なに?」
「私、あなたに、伝えなきゃならないことがあるの。ずっとずっと前から、伝えたかったことがあるの」
聞きたくない。
両耳を塞いで、逃げてしまいたい。
なのに片手は、使えなくて。
どうしても離すわけには、いかなくて。
「あのね、私、あなたの明るい色の髪がすき」
「……」
「優しく笑ってくれる瞳も、だいすき」
「……ほむ、」
「ありがとう」
「……ら、ちゃ」
「だいすき、まどか」
片手は、使えなくて。
どうしても離すわけには、いかなくて。
今放したら、きっとそのまま、行ってしまうのだろう。
予感と確信が、警報を立て続けに発して、叫び続けていた。
それでも、ほむらちゃんはいつか、離してしまうのだと、おもった。
「……私だって、だいすきだよ」
「うん」
「ほむらちゃんのこと、だいすきだよ」
だいすきの、言の葉は。
声に乗せて、形にするだけで、ほんのりと温かく、輪郭を纏う。
「「…………ありがとう」」
同時に手を、離した。
瞬間、猛烈な後悔と、焼き付くような痛みが背筋を襲って、私はそれを吐き気を堪えるように耐えて、僅かな温度が残るその手を、振り切るように頭上に掲げた。
「それじゃ、またね」
「ええ、また」
……違う。
そうじゃなくて、本当は。
言いたい。
まだ、って。
あと、何分だって。
何秒だって、かまわないから。
ほむらちゃんの背中が、遠ざかっていく。
景色が朧気に、歪んでいく。
私はまだ、手を振っている。
いつものように。いつものように。
何度こうやって、誰かと別れてきただろう。
さやかちゃんと?
マミさんと?
杏子ちゃんと?
「……ちがう」
いつだって。いつだって。
何度こうやって、あの子と別れてきただろう。
死別?
離別?
決別?
「それじゃ、だめだよ」
奇跡を、魔法を、信じたから。
この世界が生まれたのだと、いうならば。
「――――――ほむらちゃん!」
目覚めたこころは、走り出した。
背中にはちゃんと、届いてたどり着いた。
それじゃまたねの前に、寂しさを紛らわせて。
またあしたの前に、もう一度優しさが欲しい。
ばいばい、またね、
でもね、
あと、すこし。