彼の傍にいると、落ち着く。
温かくて、優しくて、愛おしい気持ちになって、知らない何かを、この手にはない何かを得るような、そんな気がする。
彼の傍にいると、苦しい。
冷たくて、厳しくて、それでも愛おしくて、知っている何かに、この身体が覚えている何かに沈むような、そんな気がする。
その日も雪が降っていた。
「シェリル、少し遅いかもしれないけど……」
口元を緩く笑みの形に動かして、彼が言葉を発する。私は睫毛を震わせて、その声に耳を澄ましていた。
彼の輪郭が少しずつ闇に溶けて、霞んでいく。私は懸命に手を伸ばし、揺らめく陽炎から救おうと、何度もその名を呼ぼうとした。
けれど言葉は意味を辿らず、惑う私の目の前で、彼は、
「俺は、お前のことを、――」
最後は、いつもこうやって、消えていく。
サンタに贈るクリスマス
「う……」
「ランカさん?」
聞き覚えのある声に目を開けると、心配そうに眉尻を下げたナナセと目が合って、思わず笑ってしまう。
「ナナちゃん、今日も迎えに来てくれたの?」
「だってランカさん、また輸血の最中に眠っていましたから……」
お馴染みの看護師に一通りの処理を頼み、ようやくベッドから身を起こしたランカは、隣のベッドを眺めた。
そこには、美しい妖精が眠っていた。
シェリル・ノーム。
銀河の妖精と呼ばれる彼女は、V型感染症に侵されながらも、命燃え尽きる最後のその時まで歌い続けた。
悪戯っぽく愛らしい振る舞いも、高く透いた声色も、昨日のことのように記憶に刻まれているのに、現実には彼女のその瞳すら、開くことはない。
細く華奢な身体にはぞっと背筋が粟立つほどの数のチューブが繋がれ、まるで残酷な拷問が行われているかのように見えた。しかしその光景が彼女の命をなんとか繋いでいるというのだから、もう涙を流すことも許されない。
やり切れない思いで小さく溜息をつく。その何気ない動作にすら過敏に反応し、涙目になってしまう心配症の友人に微笑みを返した。
「ねえ、ナナちゃん。午後の仕事の前に、ちょっといいかな?」
「はい。私で良かったら、なんでも」
ありがとう、と呟いて、連れだって集中治療室を出た。
「どこかに用事でもあるんですか?」
不安そうに聞いてくるナナセに、ううん、と頭を振って、外に踏み出す。固いコンクリートを踵で蹴って、新調したばかりの靴の感触を確かめる。遠くの方では、休まず工事の音が響いてきていた。その様子を近くで見たことはあまりない。今や希望の歌姫として人々から支持されているランカは、兄が心配するものだから、仕事以外の用事では滅多に外出をしないのだ。
バジュラの残したこの星は、広大な土地に恵まれ、緑に溢れている。汚してはならない自然の中で、人々は少しずつ土地を開拓し、失った生活を取り戻そうとしていた。少しずつ、少しずつと歩んでゆくこの進化が、技術が人間を支配していたフロンティアよりもずっと、ランカには愛おしく感じられる。
同じようなことを考えていたのだろう、目を細めて遠くを見つめていたナナセに、「あのね」と固い声で切り出した。
「わたし、最近ずっと、シェリルさんに会ってるの」
「……? はい。ランカさんが休まず輸血しているお陰で、シェリルさんは」
「違うの」
首を振って、座り込む。陽光を浴びて温まったコンクリートのはずが、その感触はとても冷たく感じられて、首筋がひやりとした。ランカの様子がおかしいと気づいたのだろう、隣に腰を下ろしたナナセは、緊張した瞳で見守っている。
「会うんだ、いつも」
「どこで、ですか……?」
「夢の中で」
輸血が始まると、途端に瞼が重くなって、眠ってしまう。そして、その時ばかり、シェリルと会う夢を見る。
夢の中では季節は冬で、ランカはシェリルに手を取られ、フロンティアの中を飛び回る。ショッピング、映画に散歩も、何から何まで騒いで、楽しくて仕方が無くて、二人で夜まではしゃいで、するとおもむろにシェリルが言う。
「ランカちゃん、今日はクリスマスね」
そういえばそうだった、と頷くと、シェリルは小さな箱を取り出す。
「これは私からの贈り物よ。大事にしてね」
受け取って、その箱を開こうとすると、きまって目が覚めて現実に引き戻されるのだ。
「素敵な夢じゃないですか」
「うん、わたしもそう思ってた。でもね、いつもなんだよ」
「え?」
「いつも、全く同じ内容の夢しか見られないの」
もう、何十回は見ただろうか。
シェリルの笑顔を見る度に、ああ、これは夢なのだと思い知る。それでもランカは、そう言い出すことができなかった。今は笑うことすらできないシェリルの夢を、否定できなかった。
その権利を持たないと、理解しているからこそ。
「シェリルさんの時間は、あの時のまま、止まっているのかな」
今、この星の季節は春だが、フロンティアで一度、シェリルと共に雪を目にしたことがある。
半年近く前のことだ。バジュラの襲撃の影響で外壁に穴が空いたことで、気候が狂い、雪が降った。白い雪が降り積もる中、佇むシェリルの背中は、壊れてしまいそうに儚くて、あんなにも近かったのに恐ろしいほど遠くに感じた。
「わたしはあのとき、シェリルさんと歌えて嬉しかった」
強くて、優しくて、時折弱くて。
人々から熱狂的な支持を受け、甘美に妖艶に歌い続ける妖精であっても、自分となんら変わらない人間なのだと、気づかせてくれたあのステージ。
「でも、わたしは、シェリルさんを裏切った」
血を吐くような声色にびくりと肩を揺らし、ナナセはそっと様子を窺うように、その名前を口にした。
「早乙女くんに告白したこと、ですか?」
移住を終えた後、しばらくの時間を置いて、ランカはナナセに全てを話していた。否、誰かに話さずにはいられなかった。それだけのことをしたのだと、実感だけは強く頭に刻まれて、まともな睡眠すら許されずにいた。ろくな食事も取ることはできなかった。
罪の意識に苛まれ続けるのも、義務であり罰なのだと受け入れようと思っていた。しかし、V型感染症に免疫のあるランカの血液がなければ、シェリルの回復は見込めない。そう医師に説得されれば、このまま健康を損なって命を落とすことなど、選択肢から外れていた。
強い決意は、弱い意志の表れでもあった。
「シェリルさんが生きているかも分からない状況で、わたしはアルト君に告白したんだ」
間違いとは、認めたくない。
「ライバルだって、お互いに宣言して……、命を助けてもらった挙げ句、だもん。あはは、信じられないよね」
しかし、正しいとは、言えない。
「そんな、そんなことをしちゃったわたしなんかを、どうしてシェリルさんは、助けてくれたのかな?」
夢の中で、シェリルはいつも笑顔だった。ずっと、優しい笑顔をしていた。
何度も、その問いをぶつけようとはしていた。罪を告白する努力もした。
できなかったのは、自身の優柔不断以上に、その微笑が身に染みたから。
ナナセが立ち上がった。
唇を固く引き結び、見下ろしてくる彼女が、断罪を下す審判のように思えて、息を呑む。
「ナナ、ちゃん」
「…………」
その腕が、空に向かって振り上げられる。叩かれるのか、と反射的に目を強く閉じた。
瞬間だった。
「 〜 〜 〜 」
「……え?」
よく馴染んだフレーズが、耳を掠めた。恐る恐る目を開けると、祈るように両手を胸元で組み、ナナセが歌っていた。
歌声は、お世辞にもうまいとは言えない。何度も音程を外して、それでも、止めずに歌い続けている。その姿が、歌手を目指していた頃の過去の自分と重なって見えて、ランカは瞬きも忘れてその光景に見入っていた。
終盤にさしかかると、ナナセが屈んで肩を優しく叩いてくる。導かれるように立ち上がって、ランカも震える唇を動かした。あの日以来、口にしていない歌だった。オファーやリクエストがあっても、何かと理由をつけて断った。憶えているか不安だったのに、歌詞はしっかりと頭の中に残っている。迷う余地すら見当たらない。
最後まで歌いきり、ほうっと息をつくと、目の前でナナセが寂しそうに微笑した。
「別れたら、明日は、もう会えないかもしれないって、思ったんですよね?」
「っ」
初めて書いた、つたない詞。
この思いを少しでも伝えたくて、何日もかけて頭を悩ませて考えた。
「…………、ぁ……っ」
一緒にいると、幸せだったこと。
たくさんの勇気を、もらったこと。
「……っうん……!」
届いただろうか。
ちょっとくらいは、彼のところまで、届いただろうか。
泣き止まないランカを、ナナセはずっと、抱きしめてくれていた。
彼の傍にいると、落ち着いた。
温かかった。優しかった。愛おしかった。知らないことを、この手を取って教えてくれた。
彼の傍にいると、苦しかった。
冷たかった。厳しかった。愛おしかった。知っている何かに突き放されてしまいそうな、恐怖があった。
その日も雪が降っていた。
「――、シェリルさん」
振り向くと、ピンクの可愛らしいワンピースを着たランカが立っていた。
安堵の吐息を洩らし、駆け寄って手を取った。ランカの手は温かくて、冷え症のシェリルはようやくほのぼのとできるのだ。
「こんにちは、ランカちゃん。そのワンピース、とっても可愛らしいけど、この寒さじゃ風邪引いちゃうわよ? さあ、ショッピングに行きましょうか。私がとっておきの勝負服を選んであげるわ」
「シェリルさん」
「ランカちゃん、どんな色が似合うかしらね? 勿論ピンクや白も可愛いけど、ここは黒で決めてみない? ヒールの高い靴もいいんじゃないかしら」
「シェリルさん!」
大きな声に驚いて、休まず動いていた唇が止まる。四半秒が経つと、小さな笑い声に変わった。
「どうしたの、ランカちゃん。突然大きな声出すからびっくりしちゃったわ」
「ごめんなさい。だけどわたし、伝えなくちゃならないことがあるんです」
「……何?」
頭の中で、警鐘が鳴り響く。その先を聞いてはならない。聞いたらきっと後悔する。もう二度と、戻れない。
躊躇の隙間を縫うように、ランカは、耳を塞ぐ時間すら与えてはくれなかった。
「これは夢です」
「…………ゆめ…………?」
「そうです」
次々と言葉は、弾丸になって放たれた。
「現実ではバジュラ本星は春を迎えていて、きれいな花が咲き誇っていて、みんな頑張って生きていて、シェリルさんは眠り続けていて、それで」
一度言葉を句切ってから、告げる。
「アルト君は、いません」
繋いでいた手が、放された。
咄嗟に追いかけようとして、踏み止まる。ランカの支えを失ったシェリルはよろけ、だらんと頭を下げた。意識の糸が切れてしまったかのような、力ない挙動だった。
「アルトが、いない」
「はい」
「そんなの」
「はい」
「ここだって、同じよ……」
同意すら、叶わなかった。嗚咽も零さず涙を流すシェリルに、軽々しく頷くこともできなかった。かわりに一筋、ランカの頬にも涙が伝った。慌てて拭うが、視界を霞ませるその水滴は、枯れる見込みがなかった。
「シェリルさん、わたし、シェリルさんに謝らないといけないことがあります」
呼びかけに、応える気配はなかった。聞こえているのかも分からなかった。
「わたし、アルトくんに」
「謝る必要なんか、ないわ」
息を止めたランカに、弱々しくシェリルは笑む。
「違う、責めてるわけじゃないの。ただ、私なんかにその行為を懺悔する必要なんかこれっぽっちもないわ」
だって、と続ける。
「アルトは私のこと、愛してなんかいなかったもの」
「、え?」
あのとき、アルトは確かに言った。
『ランカ、お前の気持ちに応えられなくてゴメンな』
そしてその後、ランカの隣を見つめていた。
『シェリル、少し遅いかもしれないけど……俺は、お前のことを、』
「聞こえて……、なかった?」
本来、歌うことなど許されない深刻な状況にあったシェリル。普段弱さを見せない彼女が、倒れかかってランカにもたれてしまうこともあった。
限界まで精神と身体を追い詰め、本能に近い領域で力ある言葉を唱えていたシェリルだ。マクロス・キャノンの光と音に包まれる彼の最後の言葉を聞き取れなかったとしても無理はない。
しかし、それは。
そんなのは、あんまりだ。
「だから私に、そんなこと言わなくてもいいのよ」
違う、と否定するのは簡単なことだ。
ただ、その言葉を信用に足るものだと納得させるのは、難しかった。
「それよりもランカちゃん、今日はクリスマスね」
この話は終わったとばかりに、シェリルはいそいそと小さな箱を取り出す。
「これは私からの贈り物よ。大事にしてね」
有無を聞かずに、ランカの手に授けようとした。
その手をぐいと、突き返す。
「……ランカちゃん?」
「わたしの手があったかいのは、春だからです」
ぎゅ、と冷たい手を握った。今もひとりきり、凍えている。
「シェリルさんの手がつめたいのは、冬だからです」
手から箱が落ちた。中身を見ようとすると、必ず目が覚めてしまうプレゼント。
壊れた箱から覗くのは、煌めく片方のイヤリングだった。
「アルト君のこと、待つんですよ」
「……」
「だから、こんな大切なもの、わたしに贈るなんてダメです」
「……でも、アルトは」
「本当は聞こえていたはずです」
顔を上げると同時に、涙が散った。鼻の奥がつんと痛んだ。格好悪くても構わない。背伸びをして、真っ直ぐに見つめる。
「アルト君は、シェリルさんに思いを伝えてました!」
「でも」
「なんですか!」
何を怒っているのか、自分でも分からない。ただ、いつも自信に満ち溢れ、ランカを引っ張ってくれていたシェリルが、こんなにも弱気に俯いているという事実が哀しくて仕方が無い。
「アルトの声、いつも途中から聞こえなくなるの」
「聞こえてます、絶対です!」
幸せになるのだ。
この人は幸せにならなくては、ならない。
「何度も何度も耳を澄ましたのに、聞こえないの」
「それなら、」
そうでないと、わたしも。
「もう一度聞けば、いいんですよ……」
わたしも幸せになんか、なれないから。
ひかりが降り注いだ。
身体がふわっと軽くなって、柔らかいリズムが流れ出す。
遠くから鐘の音がする。混じって高らかなベルの音もする。
ああ、そういえば。
「シェリルさん、今日はクリスマスですね」
ゆっくりと手を離すと、不安そうな瞳に出会って、大丈夫だと微笑む。
地面に転がったネックレスを拾い上げて、シェリルの両手にしっかりと握らせた。
「でもわたし、プレゼントはもういりません」
「……私、何にもあげてなんか、ないわ」
「いいえ」
抱きしめた。
竦んだ肩ごと、包み込む。冷たい身体が、少しでも温まるように。
ずっと昔から、こうしていれば良かった。
「シェリルさんにも、アルト君にも、たくさんのものをもらいました。二人はわたしにとって、サンタクロースみたいな存在なんです」
空への夢を与えてくれた人と。
空へ飛び立つ方法を教えてくれた人。
「だから次はわたしが、優しいサンタさん達に、プレゼントをしたいんです」
今度はわたしが、あなた達の願いを叶える番だから。
だから、どうか。
同じ光景を、目にしていた。
クイーン・フロンティアの手の平の上、アルトがこちらを見ている。
「シェリル、少し遅いかもしれないけど……」
口元を緩く笑みの形に動かして、彼が言葉を発する。シェリルは睫毛を震わせて、その声に耳を澄まし――
ブチ切れていた。
「……っ少しどころじゃないわよ!」
「え!?」
「待たせ過ぎ! アルトのくせに生意気よ!!」
「いや、だってほんとに時間が」
「うるさい! 口答えするんじゃないわ!」
唖然としている彼の輪郭が少しずつ闇に溶けて、霞んでいく。私は懸命に手を伸ばし、どころか空を飛んで、陽炎を薙ぎ払い、アルトの目の前に颯爽と降り立っていた。
「ゆ、夢だからっていろいろ反則じゃ」
「うるさいうるさいうるさい! 夢の法則性なんて知らない!」
駄々っ子のように喚くシェリルに、どうしたもんかと困惑する。落ち着かせようと手を伸ばすが、その手も勢いよく振り払って、飢えた動物のように威嚇までしてくる。
「ほんと、どうしたんだよお前……こんなキャラじゃなかったような」
頬を掻くアルトに対し、シェリルは途端に小さな声になった。
「ランカちゃんが」
「ランカが?」
「私を、外に出して……小さなライブを、するんだって」
「外にって、それ、大丈夫なのか?」
「分かんないわ。自分の状態だってよくは知らないし。でも、」
信じてみたい。
声なき声を、確かにアルトは感じ取っていた。ふ、と笑みを零して、俯いた頭に手を置く。
「……じゃあ俺も、そろそろ帰らないとな」
びくりと震える少女の髪を、何度も撫でる。自分のそれとは感触が違う、柔らかな雲のようなふわふわの髪の毛は、少し伸びたようだった。
「なるべく早く、ね」
その目元から落ちる水滴が、目に入った。瞬間に、顔を上げていた。
「聞いて欲しいことがあるの」「聞いて欲しいことがあるんだ」
同時に発して、それから、同時に笑い出す。
「また怒られちゃたまらないから、俺が先だな」
「いいわ、譲ってあげる」
「今度はちゃんと、聞こえるように言うからさ」
「ええ」
「待ってろよ」
彼の傍にいると落ち着く。
彼の傍にいると苦しい。
きっとこれが、愛。
知らなくて、知っていた、その感情を。
教えてくれたのはあなた。
だから、
「…………うん」
もう何も、怖いことはない。
お互いの耳元で、お揃いのイヤリングが小さく輝いた。
pixivのクリスマスイベントに応募した作品です。
サヨツバの続きやら補完やらを毎日考えていますが、中々形にするのは難しい……。