「うわわっ、ギリギリセーフ!」
激しい勢いで扉が開かれた。教室に駆け込んできた音也が、荒い息を吐いて額の汗を拭っている。多くの目線に冷やかされつつ、恥ずかしそうに笑って席につくと、注視している二人に気づいた。
「あ、春歌に友千香、おはよー」
「おはようございます一十木くん」
「遅刻寸前じゃない。夜更かしでもしてたの?」
丁寧なお辞儀と共に微笑む春歌と、早速詰問してくる友千香のギャップに笑みを零して、「ついねー」と返す。その曖昧な答えは実際の所嘘ではないのだが、真実とも言い難い。
会話に戻った春歌たちから視線を外して、音也は馴染みの席を振り仰いだ。すると何十分前からそうしているのだろう、規則正しく席についた友人の姿があるから、軽やかな足取りで寄っていく。先生が来るまであまり時間も残されていないだろうし、どうしても今のうちに報告しておきたかったのである。逸る心は急く足を突き動かして中々踏み止まらない。
「ねえ、マサ、マサ!」
「……ん? ああ、おはよう一十木」
顔を上げた真斗に柔らかい声で迎えられ、音也も慌てて挨拶を返した。焦って定例の行動もままならないのだ、幼い自分が少しだけ恨めしい。真斗の机の前に座り込んで顔だけ乗り出すと、何故か小さく笑われた。きょとんと首を傾げた音也は、小さく丸まって見上げるその動作がまるで本物の犬のようだと気づいていない。
「今日は随分と遅い登校だったな」
「!」
触れて欲しい事柄を真っ先に当ててもらい、失敗すら一瞬で忘却してぱっと表情が明るくなる。どこか人とずれた点はあるが、直感が鋭く、人の言動に鋭敏な真斗のことが音也は好きだった。
殊更に明るい気持ちを加速させながら、伝える。
「昨日さ、雷が怖くて中々寝られなくて、トキヤが添い寝してくれたんだ」
「確かにひどい天候で…………………………今なんと?」
「それで、結局寝不足で今日も起きられなくて、そしたらトキヤが起こしてくれた!」
寝ぼけ眼を擦る自分を一緒になって手伝ってくれて、学校に送り出してくれたのだ、と同室相手の自慢に瞳を輝かせる。あらゆる面で尤も近い場所に立つライバルではあるが、しっかり者のトキヤには強い憧れを感じずにはいられないのだ、と素直な心情を吐露すると、何か安心した溜息をつきながら、真斗がひとつ小さく頷いた。
「成る程。大方の事情は把握した」
「へ?」とまたも音也は疑問で脳内を膨らます。真斗の言葉遣いはトキヤと同じで、丁寧で堅苦しくて、理解に至るのが難しい。真似できたら格好良いけれど、無理と分かっているから諦めもつく。喋り方も個性の一つだから、自分のお気楽なトークもこれはこれで良いと思うのだ。
そんな思いでしゃがみ込んでいる音也に向かい、真斗は鋭く指摘した。
「一十木、お前にとって一ノ瀬は――母親のような存在なんだな!」
ウェディングリップ!
(友達とか兄弟とか、ましてや恋人なんかじゃ物足りないから)
「って、マサが言ってたんだ」
「……そうですか」
今日の朝あった出来事を掻い摘んで話すと、対するトキヤの反応は芳しくないものだった。音也は頬を膨らませ不服を訴える。
「もっとなんかないのー? 『立派な子に育ってくれて嬉しいです』とかさ」
「そもそも私はあなたの母親ではありません」
「いや、それはそうなんだけど」
つれないなー、とつまらなそうに呟く音也と向かいの机に向かい、トキヤは眉間の皺を殊更に深く刻んでいた。
この歳にもなって雷が怖いと喚く音也を宥めて寝かしつけたのは事実だ。睡眠不足の彼を引っ張って慌てて学校につれていったのも、同じく。
だからといって母親のようである、と形容されるのは正直嬉しくない。同室相手である以上に、その存在を強く意識していると自覚があるからこそ、真っ先に恋愛対象外の立場を示されると如何せん納得がいかないのだ。
「でも、トキヤがお母さんだったら、嬉しいなって思ったんだよ」
自分は男だと突っ込むべきなのか、総スルーで流しておくべきなのか。渋面で考え込むトキヤを傍目に、音也は続ける。
「俺、本当のお母さんのこと、よく知らないから」
「、」
紙上に走らせていたペンを止めると、音を立てずに振り返った。
だらしなく椅子にもたれて天井を見上げている音也は、普段の明るい姿からは想像もつかぬほど静かで、孤独だった。見えない瞳の端に雫が浮かんでいる気がして、拭ってやりたくなるけれど、まだ動きはしない。
その前に、訂正するべき箇所があるからだ。
「私はあなたの母親にはなれませんよ」
突き放しを表面だけ受け取って、傷ついた顔を、する。やっぱり泣いていなかったが、だからこそ余計に痛々しく感じる。
立ち上がり、歩む。近い距離にいるはずが、あまりに遠く阻まれた関係を、少しでも接近させるために。
「あなたの友達でもないし、兄弟でもありません」
「じゃ、じゃあ……ライバル?」
見上げ、縋るような言葉に首を振る。
「それじゃ、親友?」
それも違う、と否定すると、僅かに瞳が潤んで、誤魔化すように俯けて肩を落とす。察しの悪さに溜息をつくと、あきられたと勘違いしたのか、慌てて立ち上がった。
「お、俺、それでもいいよ! トキヤに嫌われてても……一緒にいると、たのしい、から」
勢いのまま手を握られ、不意打ちに瞬く。何故こうもあけっぴろげの言動を取れるのか、不思議で仕方が無い。
全く、予想できない行動ばかりが連続するから、対応に疲れることもあるけれど、本当に飽きない人間だと思う。
可愛いと、想う。
「あなたにとって他者との関係性はそれだけですか?」
「え?」
「ちょっとついてきてください」
「? うん」
不安そうに表情を曇らせている音也の手を引っ張って、ベッドの脇までつれていく。引率の教師を頼る園児のように、何の疑いも無い眼に加虐心すら疼いて、慌てて抑え込む。鈍感な相手だからといって、傷つけてまで手に入れたいとは思わない。本当はとても弱いのに強がる少年を壊れ物のように大切にするのも、不器用な自分にとっては至難の業ではあるけれど。
困惑している音也は、ベッドに押し倒されたところでようやく疑問を覚えたようだった。今更遅いと、胸中でそっと呟く。
「あの、トキヤ? なにするの?」
「私がしたいコトです」
「トキヤがしたいこと……?」
頬を撫でると、くすぐったそうに身を捩った。柔らかな赤髪は蛍光灯の明かりを反射して艶を流している。陽光が降り注いだ綺麗な色の瞳が、シーツの感触だけで眠たくなったのか僅かに細められた。唇が開く。
「ボクシング?」
「何でそうなるんですか!」
「男は最後は殴り合いだよね、やっぱし」
「訳が分かりません……」
ムードの欠片も無い回答に頭が痛くなる。それ程意識されていないのか、と目眩を覚えていると、心配してくれたのか、ゆっくりと手が伸びてきた。されるがままに頭を撫でられる。乱暴な手つきに髪を乱されるのは本意ではなかったが、何故か少しだけ気持ち良くて、眼を閉じてその感覚に浸る。
「トキヤの髪、さらさらで気持ちいーね」
「同じシャンプーを使用しているはずですが」
「そうなんだけど、そうじゃないんだよな」
稀にこうして、単純で難解な呟きをして、答えを口にせずただ、笑っている。何も考えていないかもしれないし、何か考えて苦しんでいるのかもしれない。他人の思考回路は覗けないから、せめてその信号の合間には、入り込みたい。衝動に任せ、
唇をつけた。
「……へ?」
一瞬で離れ、様子を窺っていると、腕の中で音也は、文字通り固まっていた。小さく疑問符を発した以降、暫くは壊れたように停止してしまう。
「……え、っと」
眼が泳ぐが、途中目線が合って、段々と赤くなっていく。最終的には林檎のように真っ赤になって、意味を成さない単語を羅列して幾つも洩らしていた。面白いから瞬きもなしに見守っていると、
「ううううううう…………!?」
許容量オーバー。とうとうパンクして、眼を回して湯気を上げてしまう。原始的な反応がある意味新鮮で、それでいてとてもらしいものだと思ったから、込み上げるものを抑えられず音也の肩口に顔を埋めて笑う。声を上げて、笑った。
退屈しない。次から次へと、境界を超えて、視界が拓けていく。塗り替えられていく、怖くて愛おしく、鮮やかな感覚。その歌声と同じ、空気が澄んで景色が透き通って、まるで魔法にかけられた心地になる
。
「そ、んなに笑わなくたって、いいだろ……っ」
手の平で口元を隠すから、両腕を拘束して押し戻す。暴力的な行為に眼を見開いた音也と向かい合うと、また恥ずかしそうに目線を外した。またキスされると思ったのだろうと想像すると気持ちが弾む。
「結局トキヤの目的が、よくわかんない」
「行為で教えたつもりですが、伝わりませんでしたか?」
「……言葉で言ってくれなきゃ、やだよ」
涙目で見上げられれば、拒絶などできるはずもない。形あるものだけを信じる在り方が、自分自身と重なって見えて、孤独に置いておくわけにはいかなかったのだ。
今すぐに抱きしめて、安心させてやることしか、思いつかない。
「あなたのことが好きです、音也」
「う、ん」
ぎこちない頷きは、未だそれが信じがたい告白だと悩んでいるからだろう。それもそのはずだ、いつも辛く冷たくあしらってきたのだから、寧ろ音也は嫌われているとすら感じていたのかもしれない。
しかし続く音也の言葉は、トキヤにとっては予想外のものだった。
「俺も」
小さすぎる同意は、腕に抱いているからこそ、何とか届いたといって過言ではない。それほど弱い主張だったから、聞き逃しても不思議はなかった。だからその言葉を聞き取ったトキヤにとっても、一瞬幻聴と疑うほどだった。
「え、意味分かって言ってますか?」
「う……さすがに俺でもちゃんと分かってるよ」
馬鹿にされたと勘違いして、唇を尖らせる。可愛い動作に耐えられず、柔らかいひよこの唇にまた触れると、今度こそ音也の頬は急激に紅潮した。耳まで染まって、全身が灼熱に悶えるように色っぽく熱気を溶かす。
「と、トキヤって、キス好きなの?」
「好きな人とすることならば、何でも好きですよ」
音也を真似て素直に心情を吐露すれば、二の句が継げずに悔しげに黙り込んだ。普段の恥ずかしい言動を正面切ってやり返されるとどうやら辛いらしい、と記憶に刻んでおく。ちら、と物欲しげに見上げられた。
「俺のこと、好き?」
「好きです」
「そ、そう」
満更でもなさそうにうんうんと首を縦に振っている。まだ赤い顔をして狼狽える音也を見下ろして、密かに思う。
この少年の家族になりたい。
世間が、社会が、常識がそれを許さないとしても、ひとつの誓いに結ばれた脆い関係だとしても構わない。
ただ、もう孤独ではないのだと。
庇護者の愛も、友愛も、血が通ず特別も気取らずに。
守りたい。
「あなたの欲する存在にはなれませんが、傍にいることはできます」
それは至純の、本音であり、願い。
「危ないッ、ギリギリセーフ!」
激しい勢いで扉が開かれた。大袈裟に声を荒げた音也が、転がり込むように教室に駆け込んでくる。多くの目線に親しみを込めて笑われつつ、恥ずかしそうに席につくと、二人に気づいて挨拶を交わした。
「春歌に友千香、おはよー」
「おはようございます一十木くん。今日も大騒ぎですね」
「また遅刻寸前じゃない。いい加減生活態度改めた方がいんじゃない?」
おかしそうに微笑む春歌と、厳しい言葉で応酬する友千香に「えへへ」と笑って誤魔化す。その曖昧な答えは真実を隠蔽するためで、嘘をついたわけではないがひどく適当なものだ。
会話に戻った春歌たちから視線を外して、音也は馴染みの席を振り仰いだ。相変わらず何十分前からそうしているのだろう、規則正しく席についた友人の姿があるから、高揚した気分で寄っていく。先生が来るまであまり時間も残されていないだろうし、どうしても今のうちに報告しておきたいことがある。逸る衝動は急く足を突き動かして光速すら飛び越えてしまいそうだ。
「ねねね、マサ、マサ!」
「おはよう一十木。今日も随分と遅い登校だったな」
「! うん!」
待ち望んでいた話題に回り道なく触れてもらい、ぱっと表情が明るくなる。
殊更に明るい気持ちを加速させながら、嘘偽りなく伝えた。
「昨日さ、トキヤが母親じゃなくて、俺の家族になりたいって言ってくれた!」
「確かに一ノ瀬は母のように甲斐甲斐し…………………………今なんと?」
「それで、何かいろんなとこ触られて寝かせてくれなかったんだけど、そしたら今日も起こしてくれた!」
シャワーを浴びるのも手伝ってくれて、学校に送り出してくれたのだ、と同室相手の自慢に眼を輝かせる。その会話を、最早教室中のクラスメイト達が血眼になって盗聴しているとは露知らず、音也はにこにこと無邪気に笑っている。トキヤの優しさが嬉しくてたまらないと言わんばかりだった。
何か疲れた溜息をつきながら、真斗がひとつ小さく頷いた。
「成る程。大方の事情は把握した。しかし」
しゃがみ込んでいる音也に向かい、真斗は鋭く宣言した。
「一十木、お前にとって一ノ瀬は伴侶のような存在なのかもしれないが、俺は認めない!」
その夜、再びその会話を遜色なく伝えた音也がトキヤに押し倒されたことを、真斗は知らない。
謎のタイトルの意味は「ウェディング(結婚)」+「リップ(唇)」+「グリップ(握る)」です。雰囲気で感じ取っていただければ。
音也がかわいすぎてもう……生きるのが楽しい